二・二六事件慰霊式

7月12日、二・二六事件に決起した青年将校等17名が陸軍刑務所のある代々木練兵場にて銃殺刑に処されてから83回目の命日です。

 処刑された青年将校の遺族の一人として当所にある慰霊塔前にてささやかながら慰霊式を行いました。

 間断なく小雨が降りしきる梅雨を象徴するような空模様でしたが、献花・焼香の後、「昭和維新の歌」を唱和し冥福を祈ると共に、彼らによって成就することが適わなかった昭和維新運動を令和の御世において実現すべく決意を新たにしました。

 

 処刑された日に林八郎少尉の母親が刑場に遺体を引取りに行くというので、

母親の義妹にあたる私の祖母が付き添っていく事になりました。

当時中学生であった私の母はその祖母が出かけるのを見送っていたというのですから、まさに近代史の一面を見ているようです。

その母も3年前に他界しましたので、当時を知る人は年々少なくなり近い将来この世から消滅するのでしょう。

 慰霊塔の周りにはすでに幾人かの人々が訪れたのでしょう、生花やお供え物が供えららていました。

支援者の方から賛助金をお送りいただきましたので、ありがたく使わせて頂きました。

 終了後は昨年同様に、渋谷の山家(やまが)にて直会を行いました。

 


「1月17日」と言う日の因縁

 1月17日は阪神淡路大震災から24年ということで兵庫県・神戸を中心にして東京でも慰霊の式典が開催され犠牲者の冥福を祈った。

 この「1月17日」とい日には奇妙な因縁が付きまとう。

今から28年前、1991年1月17日はアメリカがイラクにむけて軍事攻撃を仕掛けた、所謂「湾岸戦争」の開始日である。

イラクが自国領土・バスラ州の一部であるであるクウェートを軍事力を以って奪還した事に対し、米国を中心とする多国籍軍が当時のフセイン政権卒いるイラクの首都バグダッドを空爆し無辜なる市民を殺傷したのである。

 

 そしてちょうどその3年後であるが、1994年1月17日にはアメリカはロサンゼルスを巨大地震が襲い死者57名を出し、米国史上最大の経済的損失を出す「ノースリッジ地震」が発生している。

 そして翌年の1月17日が阪神淡路大震災となっていることは単なる偶然であったのか。

 

 阪神淡路大震災の発生においてリビアの指導者であったカダフィー大佐は「アメリカに追従している日本に対しアッラーの怒りが爆発した」と非礼且つ傲慢不遜なる発言をしていた。

 我々は湾岸戦争に繋がる前年の湾岸危機から一貫してイラクの立場を支持して、湾岸戦争後も人道支援で頻繁にイラクを訪問するなどしていた。

 湾岸戦争から4年。国連からの過酷な経済制裁の下で窮乏生活を強いられているイラクではあったが、我々が懇意にしているイラク政府関連機関から震災直後に一通のファックスが送信されてきた。

 「今回の震災における犠牲者に深く哀悼の意を表する。イラク政府関係機関として復興に対し手伝えることがあれば協力したいので申し出て欲しい。必要とあれば人員を派遣したい」、という内容であった。

 日本政府がアメリカ・多国籍軍に協力した湾岸戦争で甚大なる被害を蒙り、日本政府も加わった経済制裁により飢餓の発生が危惧されるほどに国民生活が危機的状況にあるにも拘わらず、我国の置かれた状況をみて救いの手を差し伸べてくれようとしたのである。

 イラク国民のみならずアラブの人々が持つ日本に対する神話は、我国に対し絶大なる尊敬と憧れを持っていた。

最後までたった一国で欧米列強と戦火を交え、原爆を投下され焼け野原になったが、戦後復興を成し遂げ近代国家になった。

敗戦に打ちひしがれたイラク国民も、日本のよう復興できると信じていたのだ。


青年将校の処刑から82年

 今年の7月12日は、二・二六事件で決起した青年将校十六名が代々木練兵場にて処刑されてから82年となります。

 今年もささやかながら練兵場跡地に建立された慰霊碑前にて追悼の誠を捧げます。

 岡田啓介首相を仕留めるために50名の兵を率いて官邸裏口から突入の指揮を執った林八郎少尉は処刑者の中で最年少の21歳。任官して間もなくしての決起でした。

 小生の母親の従兄弟にあたり、任官した際に挨拶に訪れた時は、久しぶりに会う中学生になった母を見て「あの子、だれ?」と聞いてていたそうです。

 林の叔母さんが処刑場に我が子の遺体を引き取りに行くと言うので祖母が付き添いのため同行。

母はその祖母を見送ったという事ですから、それは歴史の一場面でもありましょう。

 その母も一昨年この世を去った訳で、近い将来当時を知る人はこの世から消滅するのでしょう。

哀しくもありますが、それも歴史の必然でありましょうか。

 

 返還された遺体は全身包帯でグルグル巻きにされ全く判別もつかない状態だったそうです。

事件の真相同様に都合の悪いことは全て闇に葬るといった体制側の意図が表れています。

 

決起将校の遺族の一人として彼らが成し遂げることができなかった昭和維新という国家革新運動をこの平成の世、では無理でしょうがその次の御世において成就させるべく邁進する、そのための追悼を行うものです。

 


楠公祭に参加

5月25日(木曜日)乃木神社で開催された楠公祭に参加させて頂きました。

楠正成が湊川の戦いで斃れてから681年。

犬塚博英代表世話人が中村武彦先生の跡を継いで、毎年5月25日に斎行していものです。

第一部は犬塚代表世話人による講演。

第二部は神式による祭事。祈願詞奏上では横山孝平氏によって重厚なる詞が読み上げられ身の引き締まる思いで拝聴させて頂いた。

大楠公の生き様と死に様に触れ少数者として巨大権力に立ち向かう側としての身の処し方について思いを至らせた。

 

終了後は一同、青山にある「北の家族」に場を移しての直会。

べつに、脱北者が北に残してきた家族に思いを馳せて経営している店ではない。

普通の和風居酒屋。

旧知の人々と鍋を突っつきながら歓談のひと時を過ごした。


急遽、臨時の尊攘義軍祭が斎行される

平成29年3月15日(水曜日)午前11時、港区の愛宕神社において尊攘義軍祭が執り行われた。 

 

 大東亜戦争の終戦に際し、降伏に反対し徹底抗戦を主張していた尊攘同志会が、昭和20年8月16、17日に木戸邸を襲撃するが目的を果たせず愛宕山に篭城した。

 特高が解散の説得を試みるも、篭城した尊攘同志会の10名は、22日の午後6時に「天皇陛下万歳」を叫び手榴弾で自決した。

そして、五日後の27日、尊攘同志会自決現場で夫人二名が夫のあとを追ひい拳銃自決。この12名が「尊攘義軍十二烈士女」であり、境内に弔魂碑を建立して毎年、8月22日に尊攘義軍祭が執り行われている。

 

 今般、愛宕山山頂の再開発により弔魂碑が移設されることとなり、御霊抜きを兼ねて、臨時の義軍祭が執り行われた。

 ゼネコンによる急な開発計画に合わせ、犬塚博英代表の下で急遽計画されたものであり、呼びかけに呼応した少人数による関係者によって執り行われた。

 僭越であるが小生が進行を務め、国歌斉唱に始まり一同が弔魂碑の前で厳粛なる神事に臨んだ。

横山孝平氏によって天津祝詞(あまつのりと)を唱えられ、全員で「尊皇絶対 生命奉還 神州恢復 朝敵撃滅」の四誓願奏上(よんせいがんそうじょう)を唱え、海ゆかばを唱和した。

 民族革新会議・山口申代表と共に一同が参拝。聖壽万歳を唱えた。

犬塚代表が謝辞を述べられ、若島和美氏の献杯で幕を閉じた。

 

 十二烈士女による壮絶なる最期を次代に伝える弔魂碑の存在は事件から72年の歳月を経た今も色あせることはない。

早朝から時々氷雨が降り注ぎ底冷えする山頂において、足許が安定しないぬかるみに立ち、参加者一同十二烈士女の功績に思いを馳せた。

その後、移設予定地である境内・拝殿横の敷地において施工業者である安藤ハザマの松永所長より丁重なる説明を受けた。

自決現場からは若干離れるが、事件の全容を書き記した銘盤などを設置して後世への継承を図ることを確認し合ったのである。

 

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終了後の一行はニュー新橋ビル地下にある、「橙」に移動して直会。

サラリーマンの聖地にて昼間から大量のアルコールを用いて日頃の穢れた魂の洗浄を行った。

 森友学園の騒動に話が及ぶが、犬塚代表、野村秋介門下代表の蜷川正大氏と言った右翼民族派の重鎮は声を揃えて

「自分の子供ならアノ塚本幼稚園に通わせたたいとは思わない」、ということで一致。

あの籠池氏に本当の愛国心が備わっているとは思えない、と。全く小生の想いと同感であった。

 

幸か不幸か小生は車を運転してきたため、トンカツ定食などを頂いて3時過ぎに中座させて頂く。

皆さんはその後もダラダラ〜グダグダと居座っていたと予想させる。

お世話になりました。

 


尊攘義軍顕彰会・弔魂祭

毎年8月22日には尊攘義軍祭が斎行される港区の愛宕神社周辺であるが、再開発が急ピッチで展開されている。

標高23メートルと都内にある自然山としては最高峰であり、山頂に愛宕神社がある愛宕山自体もその対象となっている。

弔魂碑と石碑を設置して十二烈士女を祀った自決現場も再開発の対象として、弔魂碑等の移設を余儀なくされている。

移設されるにあたり、弔魂祭を実施するということで、犬塚博英尊攘義軍顕彰会代表より案内状を頂きました。

一部を転載致します。小生も参加の予定です。

DSC_0485.JPG

二つの石碑を除いて周辺は木立も伐採され更地状態となっています。

国旗掲揚塔なども引き抜かれ瓦礫と化しています。

 

 

愛宕山近辺の大規模開発が着々と進み、愛宕山山頂も整地が進んでいます。
今月初めに境内工事の地鎮祭や弔魂碑の清払いが行われたようですが、境内拝殿隣に移設する前に「尊攘義軍顕彰会」として臨時の弔魂祭を執り行いたく存じます。
平日午前中ですが、義軍顕彰に格別のお力添えを戴いて参りました各位にご参列賜ればまことに有り難く存じます。
尊攘義軍臨時弔魂祭
【時】平成29年3月15日(水)午前11時〜
【所】愛宕山山頂「弔魂碑」前
尊攘義軍顕彰会 代表 犬塚博英

 


処刑から80年、献花と焼香

 7月12日は二・二六事件で決起した青年将校15名が代々木練兵場で銃殺刑に処せらてから80年となります。

先月93歳で他界した母の従兄である林八郎少尉もその一人です。

栗原安秀大尉と共に首相官邸に岡田啓介首相征伐の任を負う中で、50名の兵を卒いて裏口から突入したのでした。

 21歳と言うことで処刑者の中では最年少でありました。

林少尉に限らず多くの処刑者は未婚でありましたから、遺族と言っても直系の子孫は少なく、私のような縁戚のものが遺族として、彼らの意思を継いで行くことになりましょう。

 2月26日のような墓前祭は行いませんが、当日は慰霊塔に対する献花・焼香を行い、彼らの意思を継承する国家革新運動の成就に向けた新たな誓いを胸に刻みたいと思います。

 

 母が中学に入学した頃、任官したばかりの林少尉が母の実家である青柳家を訪れた際に、久しぶりに母を見て成長した姿がわからずに「あの子、誰?」、と聞いていたそうです。

 それが林少尉を目にした最後だそうです。

 処刑の日に、息子の遺体を引き取りに刑場に向かう林の叔母さんに、妹である私の祖母(母の母)が付き添って、出掛けて行くのを母は見ていたと言いますから、まさに歴史のひとコマでありましょう。

 遺体は全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、顔を識別する事さえできなかった言います。

事件そのもの全てを闇に葬りたい軍部の意向が現れています。

 

 


植民統治・侵略に対するお詫び

  我国による朝鮮半島統治や大東亜戦争が侵略行為か、と問われた時に
この21世紀という現代の価値観や世相をもってすれば「侵略」「侵略戦争」と言われても致し方ない面があることは否定できない。
現代のような民主主義の下で国策が決定されたわけでもない。
東南アジアに対する軍隊の進駐とて、「大東亜の解放」を謳ってはいても相手国の民意に則っての進駐ではない。
尤も、独立していない国の人々が国家の決定として日本の軍隊を受け入れると言った決定をくだせるわけもない。

「欧米列強のる力による支配から解放する」、とは日本の身勝手な論理であり、国土が戦場となり無辜なる市民が犠牲になって、結果的に独立を果たした国が多数存在した訳であるが、「奴隷としての平和」を享受するという選択肢もあったはずである。
「日本が独立させてやった」とは、侵略戦争との誹りを払拭したいがための方便ではないのか。

しかし、世界を取り巻く価値観や情勢は現在とは比較にならない前時代的な様相を呈していた。
植民地支配という侵略することが悪ではなかった、という史実がある。
17世紀以降、欧米列強が勝手に敷いたルールに則って力のある国が無い国を屈服させて、国威を発揚させることが当たり前だった。
いま、この平和な世の中においてその価値観において、日本だけが支那・朝鮮に謝罪をし続けることは妥当ではない。
反省を言うのであれば、「何故日本が植民地支配を行ったのか」「何故、日本が軍隊を進駐させたのか」
アフリカや中南米における欧米列強の例をひも解いて近世・近代の世界史を検証して説明しなければならない。
敗戦国だから許されない。ならば戦勝国となれば何をやっても許されるのか。
良い例が支那による軍拡路線がそれである。
フィリッピン・ベトナムし対する現在進行形の侵略行為を野放しにできるのは、軍事力の背景があるからに他ならない。
また、米ソ冷戦以降における米国による世界一国支配、湾岸戦争・イラク戦争をどのように評価するのか。

安倍首相が談話の中で、日本の植民地支配・侵略を反省したいのであれば、堂々と当時の時代背景にまで踏み込んで言及すべきなのである。






 

ひざまずく鳩山元首相

時事通信 8月12日(水)19時58分配信

12日、ソウルの西大門刑務所の跡地にある歴史館で、独立運動家らを追悼するモニュメントの前でひざまずく鳩山由紀夫元首相。


二・二六事件

7月12日。二・二六事件決で決起した青年将校が代々木練兵場で処刑されてから79年目の命日。
今年の慰霊祭は内輪の関係者で行いますので、この場で予定を公表するものではありません。

ドイツと日本ではやったことが違うでしょう。

過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目である」、と言葉を残したヴァインゼッカーが大統領を務めたドイツから、メルケル首相が来日し、講演を行った。
同じ第二次大戦の敗戦国である立場からか、ドイツが過去と向き合ったことで国際社会から受け入れられたこと。
隣国・フランスとの和解を引き合いに出して、日本がシナ・南朝鮮と対話を持つことの重要性を訴えた。

 なにか勘違いをしているのだろうか。
ドイツが行ったのはユダヤと言う一民族を抹殺するという文字通りのホロコーストを実践した結果、戦争犯罪として裁かれ断罪され過去と向き合って謝罪したのです。
日本が同様の、またはそれに近い戦争犯罪を行いましたか。
 西欧列強が引いた弱肉強食社会の荒波に揉まれるなかで、人権や民主主義の概念も乏しい国際社会において生き残ろうとした結果、現在的価値観においては「侵略」と捉えられても仕方のない愚行があったということでしょう。
 また、日本の隣国にはフランスのような近代国家は存在しないのです。
華夷思想に塗れたシナと、事大主義の下で恨(ハン)の思想を文化する南朝鮮が存在しているのです。
謙譲の精神で寛容さを以て接することが、良い結果をもたらすものでなはない。
日本が頭を下げれば下げるだけ、「自らの悪辣非道を認めている」と、理解され延々と賠償と謝罪を要求されるだけなのです。
欧州の人から見れば日本人もシナ人・朝鮮人も一緒なのでしょう。
大国・ドイツの首相として民族性の違いを見極めて頂きたい。

昭和7年シナの提訴により国際連盟調査団の団長として来日したリットン卿は、日本で各要人と会見を持った。
その中で犬養毅首相についてはあまり強い印象がないものの、荒木貞夫陸軍大臣の話しを聞いて日本人というものが理解できた、と語っていた。
「あなた方ヨーロッパの人々は日本人とシナ人を同じように見ているでしょうが、両者は根本的に違うのです。何か問題が発生した時に日本人はお互いに話し合って解決しようとする。しかし、シナ人は大声を上げて誰でも良い、通りがかりの人を呼び止めて仲介をしてもらおうとする」



「和解には過去直視を」=対話の重要性強調―独首相

時事通信 3月9日(月)15時36分配信

 来日したドイツのメルケル首相は9日、東京都内で講演し、第2次大戦中に関係が悪化した周辺国との和解には「過去と向き合うことが重要」との認識を示した。
 首相はナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)にもかかわらず、ドイツは国際社会に受け入れてもらう幸運に恵まれたと指摘。「ドイツがきちんと過去と向き合った一方、連合国が過去を克服するドイツを見守ったからだ」と強調した。
 また、不倶戴天の敵だったドイツとフランスの関係が和解から友情に発展したのは「両国民が歩み寄ろうとしたところから始まった」と語り、隣国との対話の重要性を訴えた。ただ、日本と中国や韓国との関係については「アドバイスする立場にはない」と述べるにとどまった。
 首相は講演で、過激派組織「イスラム国」による日本人人質殺害やフランスの連続テロに言及。これらの事件は「自由や寛容に対する信念を妨げない」と力を込め、日本と手を携え、テロに立ち向かう考えを表明した。 


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