二・二六事件慰霊祭

 二・二六事件により15名の青年将校が刑場の露と消えた処刑の日から84年。

毎年、この日に代々木練兵場跡地に建立されている慰霊塔の前で細やかな慰霊祭を行っているが、

NHK放送センター前の道路に面しているといった場所柄か、ふらりと訪れる人も多い。

慰霊塔の前にはすでに幾人かが訪れたのであろう、数々の献花がなされていた。

今年も初めて同地を訪問したという一般の方々も参加しての慰霊祭となった。

慰霊文の朗読の後に全員が焼香を行い、最後は「昭和維新の歌」を唱和した。

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慰霊文 (原文は縦書き)

 本日七月十二日は、嘗て此処に存在した代々木練兵場において国家革新運動の中核を成した二・二六事件で中心的役割を担った青年将校十五名が刑場の露と消えた日から八十四年目となる。

 アメリカを発端とし世界経済を窮地に陥れた世界大恐慌の余波を受けて我が国も経済的な疲弊を引きずる中で、東北地方を襲った冷害により農家は窮乏状況に陥った。年端もいかない娘を身売りせねばならぬ程に国民の生活は危機的状況に陥っていたのである。にも拘わらず巨大資本家は政治家と結託し、営利至上主義の下で私腹を肥やしていた。

 この状況を座視し続けることは

天皇陛下の大御心にも反する愚挙である。天皇親政の革新国家を打ち立てるべく、陸軍皇道派の青年将校が中心となり民間人と協力し決起したのが昭和七年二月二十六日であった。

 その至純なる精神に裏付けられた決起ではあったが、それが成就することはなかった。せめて自分たちの決起の趣旨が公の場で開陳できるならばと、武装解除に応じ決起から三日後に投降したものであった。

しかし、裁判は非公開、弁護士は付かない、上告はできないといった暗黒裁判であった。その裁判記録は時代が平成の終焉を迎えるまで八十年の長きに渡り封印され関係者さえも目にすることはできなかったのである。

 まさに、支那共産党が権勢を振るい民主主義を弾圧する現在の香港の如き暗黒国家と同等であったのだ。

 軽薄なるマスメディアは二・二六事件を語る際、単純に軍部の暴走を許したことが、あの侵略戦争に繋がったと我田引水的に論じるが歴史は全くの逆である。

 当時の陸軍内部における皇道派と統制派の対立軸を見るなら、この決起が成功していれば対米融和の流れの中においてあの無謀とも言える戦争は回避されていた可能性が高い。

 陛下の宸襟を煩わせしむる重臣を成敗することで、歴史の流れは大きく変わっていたと思われる。

 

 現在の日本の状況を鑑みれば蔓延するコロナウィルスの猛威により経済は停滞し、この先どれほどの庶民が職と住居を失い路頭に迷うかも知れぬ危機的状況に逼迫しているのである。

 政府の方針として巨大資本を優遇し経済優先の下で規制緩和を図り、都心に巨大な超高層建築物を次々と乱立させ、人々をコンクリートの箱の中に押し込めてきた。

地方における人口減少、商店街の衰退という事態を顧みることなく東京への一極集中を推し進めているのである。

タワーマンションの如き集合住宅における住人の密集状態こそがコロナウィルスの蔓延を引き起こす一因になっていることは明らかであるにも拘わらず政府はその事実を隠蔽し、夜の繁華街に目を逸らさようとしている。

このような腐敗堕落した国家体制が継続して良い訳がない。

 我々、国家革新陣営としては成し遂げられなかった昭和維新に代わる平成の維新を現実のものとすべく挺身してきたが力及ばず実現には至っていない。せめてこの令和の御代においてその足掛かりを構築すべく、決起した青年将校の遺志を汲み此処に烈士の至純の魂を慰霊するものである。

令和二年七月十二日

     令和二年二・二六事件慰霊祭

     青年将校遺族代表 槇泰智

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二二六事件から84年目の慰霊祭

 昭和11年の二・二六事件から84年が経過しました。

決起した将校等は公の裁判において自分たちの決起の趣旨を述べる目的で決起から三日後の2月29日に武装解除して投降しました。

この年も今年と同じく閏年だったのです。

 しかし、事態を早急に収束させ隠蔽を図りたい軍部は、裁判を非公開とし弁護士はつけさせない、上告はできないという、正に暗黒裁判の中で決起の中心にいた17名に対し、7月5日に死刑判決を下しました。

 そして、7月12日に、代々木練兵場にて青年将校15名が銃殺刑により刑場の露と消えました。

処刑された中で21歳と最年少であった林八郎少尉は小生の母方の従兄でした。

 当日、林の伯母さんは息子の処刑の知らせを受け、刑場に遺体を引き取りに行くことになりました。

義理の妹である小生の祖母が付き添って刑場に行くという事になり、家を出ていくのを母は見送ったという事ですから、激動の昭和史の一端を見るようです。

 その母も4年前に他界しました。

昭和は遠くなりにけり、です。

 

 毎年の事ですが7月12日午後1時、代々木練兵場跡地に建立された慰霊塔(渋谷区宇田川町1−1)前で細やかな慰霊祭を実行します。参加される方は問合せてください。

09031354069 槇泰智 yakiyasutomo@daitoa.com


「二・二六事件墓前祭」を挙行

 朝からの降雨がわずかに残る空模様であったが、令和の御世に移り最初の二・二六事件墓前祭を挙行した。

引取り手の無かった二十二士の遺骨を受け入れてくれた東京・麻布「賢崇寺」の墓所に鎮座する二十二士の墓碑の前で刑場の露と消えた青年将校の遺族有志により毎年正午より墓前祭を行っている。

午後1時からは本堂にて仏心会の主催により全殉難者慰霊法要が行われているが、我々の墓前祭は単なる慰霊ではない。

彼らが成し遂げることが出来なかった昭和の維新を令和の御世において実現する。腐敗堕落した戦後体制を払拭した真の独立国家として国家の再生を図る。その決意を新たにする意味をこめた墓前祭なのである。

 因みに筆者の母の従兄弟が首相官邸への突入の指揮を取った一人、林八郎少尉。栗原安秀中尉が正面から、林少尉は50名の兵を卒いて裏門から突入した。処刑された中では22歳と最年少。青年将校の多くは結婚前であった為、直系の子孫は少ない

 

決意声明文 (原文は縦書き)

 

青年将校と民間人が決起して、天皇親政による維新の成就を目指した俗に言う「二・二六事件」から84年となる。

世界恐慌による経済的混乱の余波により国民生活は窮乏を強いられる中で、政界は財閥と癒着し民生を省みる事無く目先の利益を追求し続けてきた。特に凶作に見舞われた東北地方では娘を身売りせねば生活が成り立たぬ程に追い詰められていたにも拘わらず救済の手は差し伸べられなかった。

昭和初期の昭和維新運動の中核をなしたのが昭和11年2月26日の二・二六事件と称される世直しの決起であったのだ。

国家経営の中心に位置しながら天皇陛下の宸襟を煩わしめるが如き、君側の奸を征伐することで維新の成就を計ったものであったが、志半ばで頓挫し、決起の中心的人物は刑場の露と消えたのである。

公正なる裁判において行動の主旨と意義を堂々と開陳できるとの思いで武装解除・投降に応じたにも拘わらず、実際には非公開の暗黒裁判において死刑が言い渡されたのである。

決起将校の多くは同年7月12日に、一部民間人は8月19日に死刑が執行された。

ここ賢崇寺の墓所に建立された「二十二士之墓」には、事件に関連して命を絶った二十二名が眠っている。

誰よりも国を思い天皇への厚い忠誠を胸に国家存亡の淵に立ち、国民の救済を第一義として決起したにも拘わらず逆賊の謗りを受けて刑場の露と消えたのである。

天皇の軍隊を私物化したとの評価の下、反国家的扱いを受けてはいるが、その崇高な目的を完遂するための決起であり、靖国神社に祀られることはないものの、此処「二十二士之墓」はそれに準ずる崇高なる聖地と言っても過言ではないのである。

 

軽薄なる世間一般の認識で言えば過激な軍部の暴走があったからあの悲惨な大戦に突入したとの捉え方が大勢をしめている。

とんでもない。誤解というか曲解である。

皇道派の決起が成功していれば対米融和路線が定着し対米戦は回避されていた可能性が高い。

決起が潰されたことによって統制派が陸軍の主導権をとったことで、あの勝算なき悲惨な大戦への流れを構築していったのである。

先の大戦では本来ならば生き延びて、戦後の復興を率先して牽引すべきであった有能な人材こそが真っ先に命を投げ打って散華された。

一方で自らの保身に奔り私欲を剥き出しにした輩が生き延びて戦後政治の中枢に入り込みこの腐敗堕落した現世ニッポンを作り出したのである。

 

今般、支那を発生源として日本及び世界中で猛威を振るう新型肺炎コロナウイルスの脅威に対しては水際での対策は決して充分とは言えない。国家・民族の存亡に拘わる非常事態において如何に対処すべきか、という危機管理もままならぬ半国家的体制を露呈していると言える。

戦後、内務省は解体され国家の内部統制を執り行う責任の所在さえも明確ではなくなった。

このままでは日本は巨大な人口を抱え見せ掛けだけの経済的繁栄の上に立った極東の島国として世界の見世物として生き延びるしかなくなる。

政府は観光立国として無尽蔵に大量の外国人観光客を受け入れ賭博場を用意し、彼らから吸上げたテラ銭によって国家経済を運営しようとしている。正にオイハギ国家と言ってよい。何と言う女々しい国になりさがったのであろうか。

先人達が目指した昭和維新を平成の御世において成就させようと微力ながら挺身してきたが適わなかった。いまここに令和という新たな時代を迎えた。この御世において我々が存命中に維新のための明確なる礎だけでも築いておくことが我々に科せられた最低限の使命であると認識するものである。

 

令和二年二月二十六日

二・二六事件墓前祭実行委員会 代表 槇泰智

 

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二・二六事件慰霊式

7月12日、二・二六事件に決起した青年将校等17名が陸軍刑務所のある代々木練兵場にて銃殺刑に処されてから83回目の命日です。

 処刑された青年将校の遺族の一人として当所にある慰霊塔前にてささやかながら慰霊式を行いました。

 間断なく小雨が降りしきる梅雨を象徴するような空模様でしたが、献花・焼香の後、「昭和維新の歌」を唱和し冥福を祈ると共に、彼らによって成就することが適わなかった昭和維新運動を令和の御世において実現すべく決意を新たにしました。

 

 処刑された日に林八郎少尉の母親が刑場に遺体を引取りに行くというので、

母親の義妹にあたる私の祖母が付き添っていく事になりました。

当時中学生であった私の母はその祖母が出かけるのを見送っていたというのですから、まさに近代史の一面を見ているようです。

その母も3年前に他界しましたので、当時を知る人は年々少なくなり近い将来この世から消滅するのでしょう。

 慰霊塔の周りにはすでに幾人かの人々が訪れたのでしょう、生花やお供え物が供えららていました。

支援者の方から賛助金をお送りいただきましたので、ありがたく使わせて頂きました。

 終了後は昨年同様に、渋谷の山家(やまが)にて直会を行いました。

 


「1月17日」と言う日の因縁

 1月17日は阪神淡路大震災から24年ということで兵庫県・神戸を中心にして東京でも慰霊の式典が開催され犠牲者の冥福を祈った。

 この「1月17日」とい日には奇妙な因縁が付きまとう。

今から28年前、1991年1月17日はアメリカがイラクにむけて軍事攻撃を仕掛けた、所謂「湾岸戦争」の開始日である。

イラクが自国領土・バスラ州の一部であるであるクウェートを軍事力を以って奪還した事に対し、米国を中心とする多国籍軍が当時のフセイン政権卒いるイラクの首都バグダッドを空爆し無辜なる市民を殺傷したのである。

 

 そしてちょうどその3年後であるが、1994年1月17日にはアメリカはロサンゼルスを巨大地震が襲い死者57名を出し、米国史上最大の経済的損失を出す「ノースリッジ地震」が発生している。

 そして翌年の1月17日が阪神淡路大震災となっていることは単なる偶然であったのか。

 

 阪神淡路大震災の発生においてリビアの指導者であったカダフィー大佐は「アメリカに追従している日本に対しアッラーの怒りが爆発した」と非礼且つ傲慢不遜なる発言をしていた。

 我々は湾岸戦争に繋がる前年の湾岸危機から一貫してイラクの立場を支持して、湾岸戦争後も人道支援で頻繁にイラクを訪問するなどしていた。

 湾岸戦争から4年。国連からの過酷な経済制裁の下で窮乏生活を強いられているイラクではあったが、我々が懇意にしているイラク政府関連機関から震災直後に一通のファックスが送信されてきた。

 「今回の震災における犠牲者に深く哀悼の意を表する。イラク政府関係機関として復興に対し手伝えることがあれば協力したいので申し出て欲しい。必要とあれば人員を派遣したい」、という内容であった。

 日本政府がアメリカ・多国籍軍に協力した湾岸戦争で甚大なる被害を蒙り、日本政府も加わった経済制裁により飢餓の発生が危惧されるほどに国民生活が危機的状況にあるにも拘わらず、我国の置かれた状況をみて救いの手を差し伸べてくれようとしたのである。

 イラク国民のみならずアラブの人々が持つ日本に対する神話は、我国に対し絶大なる尊敬と憧れを持っていた。

最後までたった一国で欧米列強と戦火を交え、原爆を投下され焼け野原になったが、戦後復興を成し遂げ近代国家になった。

敗戦に打ちひしがれたイラク国民も、日本のよう復興できると信じていたのだ。


青年将校の処刑から82年

 今年の7月12日は、二・二六事件で決起した青年将校十六名が代々木練兵場にて処刑されてから82年となります。

 今年もささやかながら練兵場跡地に建立された慰霊碑前にて追悼の誠を捧げます。

 岡田啓介首相を仕留めるために50名の兵を率いて官邸裏口から突入の指揮を執った林八郎少尉は処刑者の中で最年少の21歳。任官して間もなくしての決起でした。

 小生の母親の従兄弟にあたり、任官した際に挨拶に訪れた時は、久しぶりに会う中学生になった母を見て「あの子、だれ?」と聞いてていたそうです。

 林の叔母さんが処刑場に我が子の遺体を引き取りに行くと言うので祖母が付き添いのため同行。

母はその祖母を見送ったという事ですから、それは歴史の一場面でもありましょう。

 その母も一昨年この世を去った訳で、近い将来当時を知る人はこの世から消滅するのでしょう。

哀しくもありますが、それも歴史の必然でありましょうか。

 

 返還された遺体は全身包帯でグルグル巻きにされ全く判別もつかない状態だったそうです。

事件の真相同様に都合の悪いことは全て闇に葬るといった体制側の意図が表れています。

 

決起将校の遺族の一人として彼らが成し遂げることができなかった昭和維新という国家革新運動をこの平成の世、では無理でしょうがその次の御世において成就させるべく邁進する、そのための追悼を行うものです。

 


楠公祭に参加

5月25日(木曜日)乃木神社で開催された楠公祭に参加させて頂きました。

楠正成が湊川の戦いで斃れてから681年。

犬塚博英代表世話人が中村武彦先生の跡を継いで、毎年5月25日に斎行していものです。

第一部は犬塚代表世話人による講演。

第二部は神式による祭事。祈願詞奏上では横山孝平氏によって重厚なる詞が読み上げられ身の引き締まる思いで拝聴させて頂いた。

大楠公の生き様と死に様に触れ少数者として巨大権力に立ち向かう側としての身の処し方について思いを至らせた。

 

終了後は一同、青山にある「北の家族」に場を移しての直会。

べつに、脱北者が北に残してきた家族に思いを馳せて経営している店ではない。

普通の和風居酒屋。

旧知の人々と鍋を突っつきながら歓談のひと時を過ごした。


急遽、臨時の尊攘義軍祭が斎行される

平成29年3月15日(水曜日)午前11時、港区の愛宕神社において尊攘義軍祭が執り行われた。 

 

 大東亜戦争の終戦に際し、降伏に反対し徹底抗戦を主張していた尊攘同志会が、昭和20年8月16、17日に木戸邸を襲撃するが目的を果たせず愛宕山に篭城した。

 特高が解散の説得を試みるも、篭城した尊攘同志会の10名は、22日の午後6時に「天皇陛下万歳」を叫び手榴弾で自決した。

そして、五日後の27日、尊攘同志会自決現場で夫人二名が夫のあとを追ひい拳銃自決。この12名が「尊攘義軍十二烈士女」であり、境内に弔魂碑を建立して毎年、8月22日に尊攘義軍祭が執り行われている。

 

 今般、愛宕山山頂の再開発により弔魂碑が移設されることとなり、御霊抜きを兼ねて、臨時の義軍祭が執り行われた。

 ゼネコンによる急な開発計画に合わせ、犬塚博英代表の下で急遽計画されたものであり、呼びかけに呼応した少人数による関係者によって執り行われた。

 僭越であるが小生が進行を務め、国歌斉唱に始まり一同が弔魂碑の前で厳粛なる神事に臨んだ。

横山孝平氏によって天津祝詞(あまつのりと)を唱えられ、全員で「尊皇絶対 生命奉還 神州恢復 朝敵撃滅」の四誓願奏上(よんせいがんそうじょう)を唱え、海ゆかばを唱和した。

 民族革新会議・山口申代表と共に一同が参拝。聖壽万歳を唱えた。

犬塚代表が謝辞を述べられ、若島和美氏の献杯で幕を閉じた。

 

 十二烈士女による壮絶なる最期を次代に伝える弔魂碑の存在は事件から72年の歳月を経た今も色あせることはない。

早朝から時々氷雨が降り注ぎ底冷えする山頂において、足許が安定しないぬかるみに立ち、参加者一同十二烈士女の功績に思いを馳せた。

その後、移設予定地である境内・拝殿横の敷地において施工業者である安藤ハザマの松永所長より丁重なる説明を受けた。

自決現場からは若干離れるが、事件の全容を書き記した銘盤などを設置して後世への継承を図ることを確認し合ったのである。

 

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終了後の一行はニュー新橋ビル地下にある、「橙」に移動して直会。

サラリーマンの聖地にて昼間から大量のアルコールを用いて日頃の穢れた魂の洗浄を行った。

 森友学園の騒動に話が及ぶが、犬塚代表、野村秋介門下代表の蜷川正大氏と言った右翼民族派の重鎮は声を揃えて

「自分の子供ならアノ塚本幼稚園に通わせたたいとは思わない」、ということで一致。

あの籠池氏に本当の愛国心が備わっているとは思えない、と。全く小生の想いと同感であった。

 

幸か不幸か小生は車を運転してきたため、トンカツ定食などを頂いて3時過ぎに中座させて頂く。

皆さんはその後もダラダラ〜グダグダと居座っていたと予想させる。

お世話になりました。

 


尊攘義軍顕彰会・弔魂祭

毎年8月22日には尊攘義軍祭が斎行される港区の愛宕神社周辺であるが、再開発が急ピッチで展開されている。

標高23メートルと都内にある自然山としては最高峰であり、山頂に愛宕神社がある愛宕山自体もその対象となっている。

弔魂碑と石碑を設置して十二烈士女を祀った自決現場も再開発の対象として、弔魂碑等の移設を余儀なくされている。

移設されるにあたり、弔魂祭を実施するということで、犬塚博英尊攘義軍顕彰会代表より案内状を頂きました。

一部を転載致します。小生も参加の予定です。

DSC_0485.JPG

二つの石碑を除いて周辺は木立も伐採され更地状態となっています。

国旗掲揚塔なども引き抜かれ瓦礫と化しています。

 

 

愛宕山近辺の大規模開発が着々と進み、愛宕山山頂も整地が進んでいます。
今月初めに境内工事の地鎮祭や弔魂碑の清払いが行われたようですが、境内拝殿隣に移設する前に「尊攘義軍顕彰会」として臨時の弔魂祭を執り行いたく存じます。
平日午前中ですが、義軍顕彰に格別のお力添えを戴いて参りました各位にご参列賜ればまことに有り難く存じます。
尊攘義軍臨時弔魂祭
【時】平成29年3月15日(水)午前11時〜
【所】愛宕山山頂「弔魂碑」前
尊攘義軍顕彰会 代表 犬塚博英

 


処刑から80年、献花と焼香

 7月12日は二・二六事件で決起した青年将校15名が代々木練兵場で銃殺刑に処せらてから80年となります。

先月93歳で他界した母の従兄である林八郎少尉もその一人です。

栗原安秀大尉と共に首相官邸に岡田啓介首相征伐の任を負う中で、50名の兵を卒いて裏口から突入したのでした。

 21歳と言うことで処刑者の中では最年少でありました。

林少尉に限らず多くの処刑者は未婚でありましたから、遺族と言っても直系の子孫は少なく、私のような縁戚のものが遺族として、彼らの意思を継いで行くことになりましょう。

 2月26日のような墓前祭は行いませんが、当日は慰霊塔に対する献花・焼香を行い、彼らの意思を継承する国家革新運動の成就に向けた新たな誓いを胸に刻みたいと思います。

 

 母が中学に入学した頃、任官したばかりの林少尉が母の実家である青柳家を訪れた際に、久しぶりに母を見て成長した姿がわからずに「あの子、誰?」、と聞いていたそうです。

 それが林少尉を目にした最後だそうです。

 処刑の日に、息子の遺体を引き取りに刑場に向かう林の叔母さんに、妹である私の祖母(母の母)が付き添って、出掛けて行くのを母は見ていたと言いますから、まさに歴史のひとコマでありましょう。

 遺体は全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、顔を識別する事さえできなかった言います。

事件そのもの全てを闇に葬りたい軍部の意向が現れています。

 

 


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