令和6年二・二六事件墓前祭

  決意文

本日二月二十六日は、昭和維新運動の中核を成す二・二六の決起から八十八年となる。

昭和4年、アメリカでの株価暴落を発端とした世界恐慌の波は世界を覆いつくした。

我国でも経済の要を担う繊維産業はアメリカ向け生糸の輸出が滞り、企業が相次いで倒産。

インテリ階層さえも職に就くことが適わず「大学は出たけれど」、という言葉が流行した。

東北地方を襲った冷害は昭和十年まで続き米・農作物の収穫量も少なく、貧農では娘を身売りに出す家庭が相次いだ。加えて昭和八年三月三日に岩手県沿岸を襲った昭和三陸津波では三千人余の人的被害を蒙った。東北地方では欠食児童がでるなど、困窮度は益々加速していった。

 

  しかし、財閥や政治家は疲弊する庶民の暮らしを顧みることなく私利私欲を満たし元老や軍閥、政党、役人が権力を握り欲しいままに権勢を振るっている。

疲弊する地方の農民や窮乏する庶民を救いたいとの私心なき国家改造の理想を掲げ決起したのが88年前の二・二六事件の発端である。

理不尽な日本を天皇陛下の親政の下で更生される事を希求した決起であったのだ。

 

  この時代背景を現代日本に置き換えても共通するところは大きい。

元日に石川県を襲った能登半島地震により多くの家屋が倒壊し多数の犠牲者が出た。

能登半島地震に限ったことではない。十三年前の東日本大震災しかり、北海道・熊本県・鳥取県など、煌びやかなネオン輝く首都東京を避けるかの如く、経済的に疲弊した地方を狙う様にして震災が発生している。震災から街は復興しても一旦避難した住民が戻って来ることは困難な現実がある。

 

 只でさえ、現行の政権は地方の切り捨てに奔っているのが現状である。

東京都心の土地の付加価値を高めるために建物上空を容積率として利用できる空中権を設定し、公共の財産である公有地の上空を大手デベロッパーに売却しているのである。

 大手デベロッパー・不動産業者・ゼネコンはタワーマンションなる箱モノを建築して狭小な土地に対し、無秩序なまでに多くの人々を住まわせることに狂奔している。

 高層階に住まう事が金持ちのステータスであると洗脳された都心周辺や都市近郊に住む小金持ちが続々と購入し移り住んでくる。

 すると空いた東京近郊の土地・建物に対してはドミノ式に地方から人々が移り住んでくる。都会へ移り住む体力・気力、経済力を持たぬ老人だけが地方に取残され人口減少に拍車がかかる。鉄道は廃線となり、商業施設も閉鎖され地方は加速度を増して衰退していくことになる。

 

 2月22日に、日経平均株価は平成元年以来の最高値を付けた。日本経済が活況を取り戻したと浮かれているが、庶民の懐が潤っている訳ではない。

投資家やIT長者など一部の富裕層がこの世の春を謳歌しているに過ぎない。

 

 首都東京都と地方。富裕層と庶民。全てにおいて二極化されたこの歪な社会構造は、為政者にとっては恣意的に構築された理想社会といえる。

 自らの既得権益を拡大し一部特権階級が社会を支配する。

 この不誠実なる社会構造に異議を唱える我々国家革新勢力や価値観の異なる異分子を排除・駆逐することが戦後体制構築の最終的形態と彼らは目論んでいるのである。

至純の魂をもって国家革新運動に邁進した先人の志を無駄にすることなく、昭和維新に代わる令和の維新を現実のものとすべく、我々は本日ここに思いを新たにするものである、

 

令和六年二月二十六日

         二・二六事件墓前祭

         青年将校遺族代表 槇泰智

 

 


決起将校の処刑から87年の命日

 7月12日は昭和11年の二・二六事件によって死刑判決を受けた青年将校等15名が代々木練兵場で処刑されてから87年となります。

 私の母の父であり沖縄戦で戦死した青柳時香陸軍少将の姉が林家に嫁ぎ二人の男子をもうけました。

その次男が林八郎陸軍少尉であり、二二六事件の決起に参加し死刑判決を受け当日処刑されました。

  つまり母の従兄弟にあたります。若くして当然未婚での他界でありましたから直系の親族は存在しない訳であり、私が遺族の一人と言うことになります。

21才と処刑された青年将校の中では最年少でした。

岡田啓介首相を征伐するに際し、栗原安秀中尉が本体を率いて首相官邸正門を突破するのに合わせ、林少尉は50名の兵を指揮して裏門から突入しました。

  結果的には風貌から岡田首相と勘違いした従兄弟の松尾大佐を殺害したことで本望を果たすことができなかったということです。

 林少尉が士官学校を卒業し任官した際は叔母である祖母のところに挨拶に来たそうです。

当時中学校に上がったばかりの私の母を久しぶりに見て「あの子誰?」、と聞いていたということです。

 

 裁判は秘密裏に行われ弁護士は付かない、一審制で控訴もできない中で死刑判決が言い渡され7日後に刑が執行されています。

 刑執行の知らせを受けて林の叔母さんは息子の亡骸を受取りに代々木練兵場へ出向きましたが、

義妹である祖母が付き添うというので、出かけていくのを私の母は見送ったことを覚えているそうです。

正に歴史の一コマのようですが、その母も7年前に他界しています。

 

 この林家というのもチョット変わった系譜を持っています。

林八郎の父は昭和7年の第一次上海事変で戦死した林大八陸軍少将でした。

前線を視察中の連隊長が戦死したということで当時は大きなニュースとなりました。

天皇陛下の勅使を迎え盛大な葬儀が執り行われ、軍神として靖国神社に祀られることとなりました。

その葬儀には次男の八郎も遺族として参列していましたが、長男の俊一は両脇を特高に挟まれて獄中からの列席でした。

職業は医者でしたが共産党員でしたので思想犯として逮捕され刑務所にからの仮出獄だったのです。

 

 その後、俊一は偽装転向をして釈放されましたが、戦後は共産党に戻り共産党の幹部として活動しました。

母と共に代々木の共産党本部に住み込んで活動に専念し、「おかあさん、働かざる者喰うべからずですよ」ということで

軍神の未亡人は共産党本部で賄い婦として働いていたのです。

そんなこともあり戦前は皆軍人の家系であった青柳家とは親戚づきあいが途絶えたのでした。

 

 母の妹の一人は戦後米国に渡り、長年ワシントンの日本大使館で大使秘書を務め「大使館の主(ぬし)」と言われていました。

ある時、赤旗がワシントン支局を開設したというので大使館に挨拶に来ました。

叔母が対応して支局長と食事を共にしました。

「私の従兄弟が俊一といって共産党員なんですよ」と話すと

支局長は「よく存じあげています、いま王子の共同病院(共産党系の医療機関)で院長先生を務めています。とても良い方ですよ」、と称賛していたそうです。

思想的にはアッチ方面に行ってしまったけれど、医師としては勿論、人間的にも立派な人格を兼ね備えた人物であったのだと思いたい。

 

 まあ、二・二六の決起自体が天皇の軍隊を勝手に動かして天皇陛下の怒りをかった行為であり、いわば逆賊なのであるから兄弟共にさほど相反した思想を持っていたとも思えない。

 決起の頓挫以降、陸軍内部では皇道派の勢いを制した統制派が実権を握り、あの無謀とも言える戦争へと突入していった近代史の対立軸を考慮すれば、常に反体制の側から国家革新を唱える勢力が弾圧を受けるのは必然であろうか。

 命日の明日は二十二士の墓がある麻布の賢崇寺と、渋谷・代々木練兵場跡地の慰霊塔前で慰霊法要等が行われる。

 


二・二六事件墓前祭

 決意文

  本日二月二十六日は、昭和維新運動の中核を成す二・二六の決起から八十七年となる。

アメリカを発端とした世界恐慌の波は我国にも押し寄せ、経済は疲弊し「大学は出たけれど」と言った流行語が示すように、インテリ階層ですら職にありつくことは困難な社会状況を作り出した。

  そこに東北地方を冷害が襲い、米・野菜と言った農作物の収穫は壊滅状態となり農家は収入の途を絶たれた。

年端もいかない娘を身売りせねばならぬ程に農民等庶民階層の生活は危機的状況に陥っていたのである。

にも拘わらず巨大資本家は政治家と結託し、営利至上主義の下で私腹を肥やしていた。

この状況を座視し続けることは

天皇陛下の大御心にも反する愚挙である。天皇親政の革新国家を打ち立てるべく、陸軍皇道派の青年将校が中心となり民間人と協力し決起したのが昭和十一年の所謂二・二六事件である。

 

  その至純なる精神に裏付けられた決起ではあったが、成就することはなかった。

せめて自分たちの決起の趣旨が公の場で開陳できるならばと、武装解除に応じ決起から三日後に投降した。

  しかし、裁判は非公開、弁護士は付かない、上告はできないといった暗黒裁判であった。その裁判記録は時代が平成の終焉を迎えるまで八十年の長きに渡り封印され関係者さえも目にすることはできなかったのである。

 

  軽薄なるマスメディアは二・二六事件を語る際、単純に軍部の暴走を許したことが、あの侵略戦争に繋がったと我田引水的に論じるが歴史は全くの逆である。

  当時の陸軍内部における皇道派と統制派の対立軸に着眼するならば容易に判断できることである。

歴史にIF(イフ)は無いと言われるが、この決起が成就し皇道派が陸軍で実権を握っていれば対米融和の流れの中においてあの無謀とも言える戦争は回避されていた可能性が高い。

陛下の宸襟を煩わせしむる重臣を成敗することで、歴史の流れは大きく変わっていたと可能性がある。

  統制派主導の下で勝算無き大東亜戦争に突入し、米国による総力戦の前に我が国土は焦土と化した。

  敗戦は避けられぬ事態に陥りながらも国家の指導部は停戦交渉へ向けてスターリン率いるソビエトへの仲介を模索していた。世界情勢を顧みない何という愚策であろうか。

 

  今般の世界情勢を鑑みるならば、充分な戦力を持たぬことが如何に自らの身を危険に晒す事になるか充分に認識したは  ずである。

  現下ニッポンは脆弱な婦女子が安普請の共同住宅において施錠もせず就寝しているようなものであり、凶悪なる犯罪者の標的になる事は明らかである。

  ロシアによるウクライナへの軍事侵略・民間人殺戮は現在わが国で社会問題化している押し込み強盗と共通しているところがある。

  治安は警察が守ってくれるとの幻想など犯罪者が蔓延する現在の世の中において絵空事なのである。

  むしろ国家の政策を担う国家権力がこのモラル無き犯罪者の群れを創出しているとは言えまいか。

如何に教育環境を充実しようとも社会の規範から零れ落ちる者は存在する。

従来はその受け皿がヤクザ組織であった。

  所謂、暴力団対策法が施行されてから三十四年となる。その間、新暴力団新法・暴力団排除条例が施行され、表面上は暴力団と称される人数は減少したかに見える。

  しかしながら、組織に入ることなく、最低限の矜持も道徳も持たず、犯罪遂行だけを目的とした小さな集団が無数に存在する社会が形成されてきた。

いつどこで誰がそのような組織の一端を担うか分からぬ状況で、どのようにして未然に防犯を担うと言うのか。

 

  国際社会においては、国連の安保理常任理事国と言う立場を利用して、ウクライナへの侵略を正当化するロシアの存在がある。世界の警察を自負してきた国連など常任理事国という天下の印籠の前では全く無力なのである。

  二月二十三日、国連総会においてロシアによるウクライナからの即時撤退を求める批難決議が採択された。141ヵ国の賛成を得たが、反対七を含め二割強にあたる39か国は賛成していないという現実がある。

 跳梁跋扈する犯罪者集団の前において一般庶民の振りかざす正義が如何に無力であるかを認識すべきである。

 

 日本国内、そして世界情勢をみれば、如何に危機的状況に遭遇しているか理解できるはずであるにも拘わらず、我国の為政者においては危機感が欠如しているとしか言えない。

 国会においては先般より宗教法人・旧統一教会との結びつきを穿り出し糾弾の狼煙が上げられていたが、ここにきてLGBT問題を持ち出して、性的マイノリティーと称される人々への賛美を送らぬ人間を犯罪者の如くやり玉にあげる事が正義と捉えられ、野党からの攻撃に晒されている。

  本来、国民の生命と財産を護り、国家の矜持を論ずるべき国政の場が、その職責を放置しているに等しいのである。

国民の生命・財産を守るのは国の役目である。声高に正義を訴えても力がなければ無力である。

腐敗堕落しきった現政権を打ち倒し、皇室を中心においた天皇親政の革新国家を打ち立て、国民が一丸となる挙国体制の下で外敵に立ち向かう時を見据えて本日の墓前祭に臨むものである。

 

令和五年二月二十六日

二・二六事件墓前祭

青年将校遺族代表 槇泰智

 

(原文は縦書き)

 

 


決起将校慰霊祭を斎行

令和4年7月12日。

国家革新を掲げ青年将校等が決起した二二六事件の結果、15の青年将校が刑場の露と消えた命日となる。

歴史的な決起から86年を経過するが事件の真相は未だ闇の中である。

武装解除に応じ投降したのは、裁判において決起の趣旨を開陳する機会が与えられるとの思いからであった。

しかし、決起そのものを闇に葬る事を目論んだ陸軍首脳部・統制派の思惑により

裁判は非公開で弁護人は付かず、控訴もできない一審制という閉鎖的な場であった。

為政者の思惑で如何様にも司法の公正さを捻じ曲げることが出来るというのは今も何ら変わらない。

反体制勢力に対する権力側の締め付けは一層厳しくなっているのではないか。

決起将校遺族を代表して、処刑場となった代々木練兵場の跡地に設けられた慰霊塔前において細やかない慰霊祭を斎行しました。

〈岡山県から参加してくださった田井さんとともに〉

 

終了後に直会を兼ねた暑気払いの会。

コロナ禍で飲酒を伴った会合は極力控えていたので、顔なじみの同志と久々に盃を酌み交わす。

最近、テング大ホールをよく利用する。

店内は広くゴミゴミしていないので密集状態になりにくい。

単価が安くメニューも豊富なので皆がアレコレ勝手に注文しても低予算で賄える。

慰霊祭に際しご厚志を賜りました方々に厚く御礼を申しげます。

香料・供花、直会に有難く使うわせて頂き、令和の維新の成就に向けて決意を心新たに致しました。


紀元節

211日、紀元節

令和4年は皇紀で2682年となる。

18年後には皇紀2700年となるが、2600年のときのように政府としての祭典を実施するのだろうか。

もっともそれまで小生自身が生きているかどうか疑わしい。

星陵会館で実施された紀元節奉祝式典に出席した。

神道儀式による厳粛な「紀元節祭」に引き続き詔勅研究家である佐藤健二氏による記念講演。

「神武紀元と明治の精神」を拝聴する。

「紀元節」の歌奉唱においてはコロナ禍を配慮して参加者一同は起立して心の中で唱和した。

ソシアルディスタンスを考慮して、座席は一つ開けた状態でちょうど良い按配の参加人員であったろうか。

我国が神武創建により悠久の歴史を踏まえ、万世一系皇室を中心とした国家であることを改めて確認した。


令和3年「二・二六事件」墓前祭

令和3年「二・二六事件」墓前祭を斎行しました。

二二六の決起行動によって処刑されるなど逆賊とされる立場で命を絶たれた22人を祀った東京・麻布の賢崇寺にある「二十二士の墓」墓前において10年程前より、林八郎少尉の遺族である私が主催して毎年斎行しているものです。

 青年将校遺族の集まりである仏心会では、毎年「全殉難者慰霊法要」を本堂で営んでいますが、決起によって成敗された重臣やその警備にあたっていた警官も含めたすべての殉難者の霊を慰めるための法要です。

 一方、我々の墓前祭は明確に彼ら先人が成し遂げることができなかった昭和維新という国家改革を令和の御代において現実のものにしようという信念を持ち、その決意を墓前にて誓うためのものです。

 

  決意文  (原文は縦書き)

  本日二月二十六日は、昭和維新運動の中核を成す二・二六事件の決起から八十五年となる。

アメリカを発端とし世界経済を窮地に陥れた世界大恐慌の余波を受けて我が国も経済的な疲弊を引きずる中で、東北地方を襲った冷害により農家は窮乏状況に陥った。

 年端もいかない娘を身売りせねばならぬ程に国民の生活は危機的状況に陥っていたのである。にも拘わらず巨大資本家は政治家と結託し、営利至上主義の下で私腹を肥やしていた。

 この状況を座視し続けることは

天皇陛下の大御心にも反する愚挙である。天皇親政の革新国家を打ち立てるべく、陸軍皇道派の青年将校が中心となり民間人と協力し決起したのである。その至純なる精神に裏付けられた決起ではあったが、成就することはなかった。

 せめて自分たちの決起の趣旨が公の場で開陳できるならばと、武装解除に応じ決起から三日後に投降した。

 しかし、裁判は非公開、弁護士は付かない、上告はできないといった暗黒裁判であった。その裁判記録は時代が平成の終焉を迎えるまで八十年の長きに渡り封印され関係者さえも目にすることはできなかったのである。

 

 軽薄なるマスメディアは二・二六事件を語る際、単純に軍部の暴走を許したことが、あの侵略戦争に繋がったと我田引水的に論じるが歴史は全くの逆である。

当時の陸軍内部における皇道派と統制派の対立軸を見るなら、この決起が成就していれば対米融和の流れの中においてあの無謀とも言える戦争は回避されていた可能性が高い。

陛下の宸襟を煩わせしむる重臣を成敗することで、歴史の流れは大きく変わっていたと思われる。

 現在の社会情勢を見るならば我国において新型コロナウィルスの感染拡大が始まり一年を経過した。

 日本政府は経済の回復と感染拡大の防止を同時に実施するという足元の定まらぬ日和見政策の結果、終息の兆しは見えず外国から輸入されるワクチン接種に望みを託す状況にある。

政府は国民に対し不要不急の外出自粛や飲食店における夜間の営業自粛を求めてはいるが、戦後民主主義の下で自由の意義を履き違えた庶民においては、強制力を伴わない自粛措置など無いに等しい状況である。

 

 現在の経済的繁栄と自由が如何なる尊い犠牲の上で成し得られたのかなど多くの国民においては忘却の彼方に置き去られたまま、いや初めから顧みるような教育を受けてこなかったのである。

 このコロナウィルス禍においても世界情勢は渾沌としている。ロシアにおける圧政は旧ソ連時代を彷彿とさせるが如く民衆の声を強権で押しつぶしているが、これに反抗する市民勢力は決死の覚悟で抵抗している。

 またミャンマーにおいては軍事クーデターにより選挙によって国民から選出された政権首脳は幽閉状態にあるが多くの市民が抵抗を試みている。

 そして、アメリカにおける大統領選挙にしても選挙の不正という主張に触発された民衆によって連邦議会が占拠される事件が発生した。

 諸外国の情勢を鑑みて如何なる勢力に正当性を持たせるかは置いておくとして、金城鉄壁の構えを持つように見える現体制の一角を突き崩す可能性を見出す事ができる。

軍隊を前面に出したクーデターではなくとも民衆のパワーを傑出させた形で政権の中枢に打撃を与えることは可能である。

 

 民間会社に奉仕する総理大臣の息子が官僚を接待し不当に利益を貪る社会。これを追及するのはなにも売国的左翼勢力の専売特許ではない。

 政と官、そして財界との結託により不当に利益を貪り、国の根幹を顧みない政治屋に国の将来を託す訳にはいかないのである。

 総理大臣からして総裁選の公約では携帯電話料金の値下げと、不妊治療の保険適用が眼目では国の存亡はどうなる。自主憲法制定や安全保障・外交・拉致問題解決など一切触れようともしない。

南朝鮮によって奪われたままの竹島はどうなる。北方領土はプーチン政権下では絶対に還ってこないと分かっている。ならばそれに代わる野党指導者を政権に就かせることで根回しと援助を示唆する位の狡猾さを示す気概もないのか。

 菅政権が次期総裁選までのワンポイントリリーフとして、穏便に任期を終える事だけを考えているのであるならば、その弛緩した間隙を狙い、一気に政権の転覆を目論む事も選択肢の一つに組み入れられるのである。

 我々、国家革新陣営としては成し遂げられなかった昭和維新に代わる平成の維新を現実のものとすべく挺身してきたが力及ばず実現には至っていない。せめてこの令和の御代においてその足掛かりを構築すべく、決起した青年将校の遺志を汲み此処に烈士の至純の魂を慰霊すると共に来るべき維新への礎を構築せんと決意を新たにするものである。

令和三年二月二十六日

   二・二六事件墓前祭

   青年将校遺族代表 槇泰智

 

 

 


二・二六事件慰霊祭

 二・二六事件により15名の青年将校が刑場の露と消えた処刑の日から84年。

毎年、この日に代々木練兵場跡地に建立されている慰霊塔の前で細やかな慰霊祭を行っているが、

NHK放送センター前の道路に面しているといった場所柄か、ふらりと訪れる人も多い。

慰霊塔の前にはすでに幾人かが訪れたのであろう、数々の献花がなされていた。

今年も初めて同地を訪問したという一般の方々も参加しての慰霊祭となった。

慰霊文の朗読の後に全員が焼香を行い、最後は「昭和維新の歌」を唱和した。

慰霊塔.jpg

 

 

慰霊文 (原文は縦書き)

 本日七月十二日は、嘗て此処に存在した代々木練兵場において国家革新運動の中核を成した二・二六事件で中心的役割を担った青年将校十五名が刑場の露と消えた日から八十四年目となる。

 アメリカを発端とし世界経済を窮地に陥れた世界大恐慌の余波を受けて我が国も経済的な疲弊を引きずる中で、東北地方を襲った冷害により農家は窮乏状況に陥った。年端もいかない娘を身売りせねばならぬ程に国民の生活は危機的状況に陥っていたのである。にも拘わらず巨大資本家は政治家と結託し、営利至上主義の下で私腹を肥やしていた。

 この状況を座視し続けることは

天皇陛下の大御心にも反する愚挙である。天皇親政の革新国家を打ち立てるべく、陸軍皇道派の青年将校が中心となり民間人と協力し決起したのが昭和七年二月二十六日であった。

 その至純なる精神に裏付けられた決起ではあったが、それが成就することはなかった。せめて自分たちの決起の趣旨が公の場で開陳できるならばと、武装解除に応じ決起から三日後に投降したものであった。

しかし、裁判は非公開、弁護士は付かない、上告はできないといった暗黒裁判であった。その裁判記録は時代が平成の終焉を迎えるまで八十年の長きに渡り封印され関係者さえも目にすることはできなかったのである。

 まさに、支那共産党が権勢を振るい民主主義を弾圧する現在の香港の如き暗黒国家と同等であったのだ。

 軽薄なるマスメディアは二・二六事件を語る際、単純に軍部の暴走を許したことが、あの侵略戦争に繋がったと我田引水的に論じるが歴史は全くの逆である。

 当時の陸軍内部における皇道派と統制派の対立軸を見るなら、この決起が成功していれば対米融和の流れの中においてあの無謀とも言える戦争は回避されていた可能性が高い。

 陛下の宸襟を煩わせしむる重臣を成敗することで、歴史の流れは大きく変わっていたと思われる。

 

 現在の日本の状況を鑑みれば蔓延するコロナウィルスの猛威により経済は停滞し、この先どれほどの庶民が職と住居を失い路頭に迷うかも知れぬ危機的状況に逼迫しているのである。

 政府の方針として巨大資本を優遇し経済優先の下で規制緩和を図り、都心に巨大な超高層建築物を次々と乱立させ、人々をコンクリートの箱の中に押し込めてきた。

地方における人口減少、商店街の衰退という事態を顧みることなく東京への一極集中を推し進めているのである。

タワーマンションの如き集合住宅における住人の密集状態こそがコロナウィルスの蔓延を引き起こす一因になっていることは明らかであるにも拘わらず政府はその事実を隠蔽し、夜の繁華街に目を逸らさようとしている。

このような腐敗堕落した国家体制が継続して良い訳がない。

 我々、国家革新陣営としては成し遂げられなかった昭和維新に代わる平成の維新を現実のものとすべく挺身してきたが力及ばず実現には至っていない。せめてこの令和の御代においてその足掛かりを構築すべく、決起した青年将校の遺志を汲み此処に烈士の至純の魂を慰霊するものである。

令和二年七月十二日

     令和二年二・二六事件慰霊祭

     青年将校遺族代表 槇泰智

慰霊像.JPG


二二六事件から84年目の慰霊祭

 昭和11年の二・二六事件から84年が経過しました。

決起した将校等は公の裁判において自分たちの決起の趣旨を述べる目的で決起から三日後の2月29日に武装解除して投降しました。

この年も今年と同じく閏年だったのです。

 しかし、事態を早急に収束させ隠蔽を図りたい軍部は、裁判を非公開とし弁護士はつけさせない、上告はできないという、正に暗黒裁判の中で決起の中心にいた17名に対し、7月5日に死刑判決を下しました。

 そして、7月12日に、代々木練兵場にて青年将校15名が銃殺刑により刑場の露と消えました。

処刑された中で21歳と最年少であった林八郎少尉は小生の母方の従兄でした。

 当日、林の伯母さんは息子の処刑の知らせを受け、刑場に遺体を引き取りに行くことになりました。

義理の妹である小生の祖母が付き添って刑場に行くという事になり、家を出ていくのを母は見送ったという事ですから、激動の昭和史の一端を見るようです。

 その母も4年前に他界しました。

昭和は遠くなりにけり、です。

 

 毎年の事ですが7月12日午後1時、代々木練兵場跡地に建立された慰霊塔(渋谷区宇田川町1−1)前で細やかな慰霊祭を実行します。参加される方は問合せてください。

09031354069 槇泰智 yakiyasutomo@daitoa.com


「二・二六事件墓前祭」を挙行

 朝からの降雨がわずかに残る空模様であったが、令和の御世に移り最初の二・二六事件墓前祭を挙行した。

引取り手の無かった二十二士の遺骨を受け入れてくれた東京・麻布「賢崇寺」の墓所に鎮座する二十二士の墓碑の前で刑場の露と消えた青年将校の遺族有志により毎年正午より墓前祭を行っている。

午後1時からは本堂にて仏心会の主催により全殉難者慰霊法要が行われているが、我々の墓前祭は単なる慰霊ではない。

彼らが成し遂げることが出来なかった昭和の維新を令和の御世において実現する。腐敗堕落した戦後体制を払拭した真の独立国家として国家の再生を図る。その決意を新たにする意味をこめた墓前祭なのである。

 因みに筆者の母の従兄弟が首相官邸への突入の指揮を取った一人、林八郎少尉。栗原安秀中尉が正面から、林少尉は50名の兵を卒いて裏門から突入した。処刑された中では22歳と最年少。青年将校の多くは結婚前であった為、直系の子孫は少ない

 

決意声明文 (原文は縦書き)

 

青年将校と民間人が決起して、天皇親政による維新の成就を目指した俗に言う「二・二六事件」から84年となる。

世界恐慌による経済的混乱の余波により国民生活は窮乏を強いられる中で、政界は財閥と癒着し民生を省みる事無く目先の利益を追求し続けてきた。特に凶作に見舞われた東北地方では娘を身売りせねば生活が成り立たぬ程に追い詰められていたにも拘わらず救済の手は差し伸べられなかった。

昭和初期の昭和維新運動の中核をなしたのが昭和11年2月26日の二・二六事件と称される世直しの決起であったのだ。

国家経営の中心に位置しながら天皇陛下の宸襟を煩わしめるが如き、君側の奸を征伐することで維新の成就を計ったものであったが、志半ばで頓挫し、決起の中心的人物は刑場の露と消えたのである。

公正なる裁判において行動の主旨と意義を堂々と開陳できるとの思いで武装解除・投降に応じたにも拘わらず、実際には非公開の暗黒裁判において死刑が言い渡されたのである。

決起将校の多くは同年7月12日に、一部民間人は8月19日に死刑が執行された。

ここ賢崇寺の墓所に建立された「二十二士之墓」には、事件に関連して命を絶った二十二名が眠っている。

誰よりも国を思い天皇への厚い忠誠を胸に国家存亡の淵に立ち、国民の救済を第一義として決起したにも拘わらず逆賊の謗りを受けて刑場の露と消えたのである。

天皇の軍隊を私物化したとの評価の下、反国家的扱いを受けてはいるが、その崇高な目的を完遂するための決起であり、靖国神社に祀られることはないものの、此処「二十二士之墓」はそれに準ずる崇高なる聖地と言っても過言ではないのである。

 

軽薄なる世間一般の認識で言えば過激な軍部の暴走があったからあの悲惨な大戦に突入したとの捉え方が大勢をしめている。

とんでもない。誤解というか曲解である。

皇道派の決起が成功していれば対米融和路線が定着し対米戦は回避されていた可能性が高い。

決起が潰されたことによって統制派が陸軍の主導権をとったことで、あの勝算なき悲惨な大戦への流れを構築していったのである。

先の大戦では本来ならば生き延びて、戦後の復興を率先して牽引すべきであった有能な人材こそが真っ先に命を投げ打って散華された。

一方で自らの保身に奔り私欲を剥き出しにした輩が生き延びて戦後政治の中枢に入り込みこの腐敗堕落した現世ニッポンを作り出したのである。

 

今般、支那を発生源として日本及び世界中で猛威を振るう新型肺炎コロナウイルスの脅威に対しては水際での対策は決して充分とは言えない。国家・民族の存亡に拘わる非常事態において如何に対処すべきか、という危機管理もままならぬ半国家的体制を露呈していると言える。

戦後、内務省は解体され国家の内部統制を執り行う責任の所在さえも明確ではなくなった。

このままでは日本は巨大な人口を抱え見せ掛けだけの経済的繁栄の上に立った極東の島国として世界の見世物として生き延びるしかなくなる。

政府は観光立国として無尽蔵に大量の外国人観光客を受け入れ賭博場を用意し、彼らから吸上げたテラ銭によって国家経済を運営しようとしている。正にオイハギ国家と言ってよい。何と言う女々しい国になりさがったのであろうか。

先人達が目指した昭和維新を平成の御世において成就させようと微力ながら挺身してきたが適わなかった。いまここに令和という新たな時代を迎えた。この御世において我々が存命中に維新のための明確なる礎だけでも築いておくことが我々に科せられた最低限の使命であると認識するものである。

 

令和二年二月二十六日

二・二六事件墓前祭実行委員会 代表 槇泰智

 

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二・二六事件慰霊式

7月12日、二・二六事件に決起した青年将校等17名が陸軍刑務所のある代々木練兵場にて銃殺刑に処されてから83回目の命日です。

 処刑された青年将校の遺族の一人として当所にある慰霊塔前にてささやかながら慰霊式を行いました。

 間断なく小雨が降りしきる梅雨を象徴するような空模様でしたが、献花・焼香の後、「昭和維新の歌」を唱和し冥福を祈ると共に、彼らによって成就することが適わなかった昭和維新運動を令和の御世において実現すべく決意を新たにしました。

 

 処刑された日に林八郎少尉の母親が刑場に遺体を引取りに行くというので、

母親の義妹にあたる私の祖母が付き添っていく事になりました。

当時中学生であった私の母はその祖母が出かけるのを見送っていたというのですから、まさに近代史の一面を見ているようです。

その母も3年前に他界しましたので、当時を知る人は年々少なくなり近い将来この世から消滅するのでしょう。

 慰霊塔の周りにはすでに幾人かの人々が訪れたのでしょう、生花やお供え物が供えららていました。

支援者の方から賛助金をお送りいただきましたので、ありがたく使わせて頂きました。

 終了後は昨年同様に、渋谷の山家(やまが)にて直会を行いました。

 


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