古賀俊昭都議ご逝去

 古賀俊昭都議会議員の訃報に接し愕然とした。日野市選出で72歳であった。

いままでお元気な姿しか拝見していなかったので、あまりに突然な別れに言葉もない。

いつも青い背広に赤いネクタイを締めて颯爽と風を切るように歩いて来られた。

三年前であったか麻布・賢崇寺での二・二六事件墓前祭にも足を運んで頂いた。

 

 古くは、小泉訪朝以前の世間が「単なる疑惑」と言って無視していた当時の北朝鮮拉致問題でも共に署名活動を行っていた。

 更には平成12年に起こった国立第二小学校での日の丸掲揚問題では、地元が近いということもあり、熱心に現場に足を運ばれ学校の正常化を訴える我々の運動を指導してくれた。

卒業式終了後、組合員教師に先導(洗脳)された卒業生が日の丸掲揚によって心が傷つけられたと言って、校長を糾弾し土下座要求した事件であった。

我々も同校の正常化を見守り、翌年の卒業式には古賀議員と共に体育館の外で見守り、国歌斉唱が行われるのを確認した覚えがある。

これからも更に活躍してもらいたい人物であった。

ご冥福をお祈り致します。 合掌

 


阿形充規先生傘寿を祝う会

 11月21日、予約してあったので午前中に病院に行き胃カメラ検査。数年ぶりなのでチョイ心配。

えらい長い時間に渡って入れたり出したりしているので、「これはもう」と覚悟を決めたりしたが。

結果はなんともない、と。

 午後から近隣都立高校で運営連絡協議会。都から委嘱を受けた地域の識者が学校から運営の方針など報告を受けて今後の経営などを話し合う会で年に3回ほど開催されている。

個人的事情ではあるが次の用件が迫っているので自らの発言は最小限に留めて時間通りに終了してもらう事を乞い願う。が、同席者の年配のお一人が延々と有難くも重厚なるお話を展開してくださるので参加者一同敬意を持って拝聴。

時間が若干延びて終了。急いで電車に飛び乗り新宿へ向う。

「阿形充規先生傘寿を祝う会」の開会ギリギリで到着。

その界のお歴々が参集し、阿形先生の更なるご活躍を祈念しご長寿を祝う宴席が持たれた。

某有名女性歌手が歌を披露し場を盛り上げるがこのご時勢故、撮影・録音はご遠慮願うとの当然のアナウンス。

胃カメラの検査で空気を入れたりしたので酒食がスムーズに進まないのが残念。

 

 小生からすれば「社会の不条理を糾す会」の代表世話人というお立場で、常日頃からご指導頂いている。

我々民族派陣営にとっては生き辛い世の中となってきたが、今後とも民族派陣営の道標としてご活躍される事を祈念するものです。

阿形先生.jpg

 


野村秋介先生墓前祭

10月20日(日曜日)、野村秋介先生の26年目の命日。

神奈川県伊勢原市にある浄発願寺で斎行される墓前祭に向かう。

車を運転し朝9時半に集合場所である新宿駅西口に到着。

昨日、社会の不条理を糾す会で演説を行った場所なので分かりやすい。

この日ばかりは奮発して高速道路を走ってみると渋滞も無く1間半程で現地に到着した。

11時より昨年逝去された群青の会の正田初代会長の法要・納骨に参列。

野村先生のお墓の隣に納骨されるのを一同で見届ける。

午後1時より野村秋介先生の法要。

朝日新聞社で自裁されたのは平成5年10月20日。

全日空ホテルで行われた民族派のシンポジウムの席上で自裁の一報が届いたのだ。

シンポジウムの開始直前に居合わせた新聞記者から美智子皇太子妃がお倒れになったとの情報がもたらされた。

蜷川さんにお知らせすると「えっ、皇太后ではなく、美智子皇后が」、と驚かれていたの思い出す。

それから時をおかずして野村先生の自裁という更なる驚天動地の報がもたらされるとは想像もしていなかった。

 

 この浄発願寺を始めて訪問したのは平成3年の秋。

富士霊園で営まれた三上卓さん(五・一五事件の中心人物)の没後20年祭の後だった。

訳も分からずに野村先生の車の後を着いてくるように指示され、たどり着いたのが浄発願寺だった。

まだ開眼前の古刹で現在墓所のある場所を指差して「ここに俺の墓を作るんだ」と言っておられた。

もしかしたらその二年後には此処に辿り着く事を予見していたのではないだろうか。

 

 法要後は、犬塚博英先生や芳賀女史、正論社の鈴木さん・倉敷から参加された田井さん等も同乗し横浜の中華街を目指す。

渋滞する東名高速から保土ヶ谷バイパスを経由して、中華街の大珍楼へ。

大きな会場で本場の中華料理を堪能。

野村先生令夫人が一つ一つテーブルを回りご丁寧にご挨拶を頂き恐縮してしまう。

 

その後、運転を関氏に任せ犬塚先生のご厚意で東中野の「あずさ」で一献。コインパーキングに駐車して翌朝に取りに行く事に。

新鮮な魚介類を用いた昌子女将の手料理に舌鼓を打ちつつ焼酎と日本酒が進む。

その後、もう一軒と言うことで鈴木さんのご厚意で中野駅前の中華一番でハイボールを4〜5杯は飲んだろうか。一杯110円という激安中華だから相当に薄く作ってあるのだろう。飲んでも余り酔わない。

11時過ぎには散会となり、夜風に吹かれ30分程歩いて帰宅する。

浄発願寺.JPG

 

 


沼山光洋さん自決

  五月十一日(土曜日)、「未明に靖国神社近くの路上で靖国会の沼山光洋事務局長が割腹自決を遂げた。遺体は麹町警察署に安置されている」と、沼山さんと常日頃より懇意にされている犬塚博英先生から早朝に電子郵便にて一報を頂いた。

 

 沼山さんは私にとって靖国会事務局長というよりも十数年前設立に参画された保守系市民団体副代表としての立場において活動とプライベートの物心両面で多々お世話になった人物であった。言葉では言い尽くせない程のご厚情を頂いている。

 当時は所謂「行動保守」、世俗的な言い方をすればネットウヨクの人々ともテーマ・目標が一致すれば一緒に活動を展開していたので、活動の現場などで沼山さんからは多々教えられたりご尽力を頂いた。

 

 靖国会の田母神総代が自決の一報をツイッターで上げる中で、気遣いの人であったとその人柄を賞賛していたが、まったくその通りであった。年長者や若年者など隔たりなく気を配り、自分の車で遠隔地までも送り迎えすることを全く厭わない風に見えた。

 

 小生が平成十八年末から使用している政経調査会ブログに関しても沼山さんが拙宅まで出向いて立ち上げてくれたものである。ネット環境に疎く発信の手段を持たぬ小生が翌年春の区議選に出馬するにあたり、活動報告や主張・写真をアップするために、労を惜しまずブログを立ち上げてくれた。

 

 また、昨年五月にはワシントンに居住する小生の叔母が来日した際、靖国神社への参拝を希望していた。                              沖縄戦で戦死した祖父・青柳時香陸軍少将の御霊へ詣でるにあたり沼山さんが靖国神社への橋渡しをしてくださり、昇殿参拝の後に坂明夫権宮司との会談の場を設定してくれた。                                             米寿を迎え日本への訪問は最後になるとの思いで来日した叔母はえらく喜んでいた。  

                                                          八年前には小生が売りに出していた中古のメルセデスベンツ・ステーションワゴンを現金で購入してくださり経済的にも偉く救われた。当時の湯沢総代を送迎するのに使用すると言うことであったが、小生を助けるためにさほどの必要性もない中で気を利かせてくれたのではないかと思う。

 

 沼山さんがこのような壮絶なる自決という挙にでた理由を小生如きが安易に詮索する事はできないが、平成の御世において陛下が靖国神社へご親拝頂けるような環境を整えられなかった事への責任を負った、ということなのだろうか。

沼山さんのご冥福を祈り謹んで哀悼の意を捧げます。 合掌

 

 


NHKスペシャル「国松長官狙撃事件」

昨晩NHKで放映していたNKHスペシャル「未解決事件ファイル」を観た。

現在、無期懲役で岐阜刑務所に収監されている中村泰受刑者に焦点をあて、

平成7年3月の国松孝次警察庁長官狙撃事件の犯人である可能性をドラマ形式で探っていた。

 中村泰を演じていたイッセー尾形の演技は迫真もの。

中村泰という人物は報道写真でしか見た事はないものの、おそらくはこんな感じであろうと思わせる信憑性に満ちていた。

 東大を中退、革命を目指し警官殺しで長期の刑に服す。

その後海外を渡り歩き武器を調達するなど堪能な語学く駆使して各方面とのパイプを繋いだと言う。

千葉刑務所で服役中に野村秋介氏と知己を持ち、野村氏のコネクションを革命に利用しようと目論んだと言う。

 証言によると中村氏は金は持っていたが人が集まらなかったいう。その資金はどのようにして調達したのか。銀行強盗で資金を調達したのか。

 未解決の事件であるが、警視庁公安部ではオウム真理教による犯行として処理したいので、当初より見当違いの捜査をしていたという。警察って言うのはそこまで馬鹿なのか、そうなのだろう。

中村と言う人物は本人の言うとおり本当に犯人なのか。それとも只、世間の注目を集めたいだけなのか。

 中村氏も88歳とこの先短いであろうが、この人物の本質に本腰を入れて迫ってみたいものだ。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180908-00057307-gendaibiz-bus_all

 

 

 


三浦重周氏追悼【早雪忌】

 平成29年12月10日(日曜日)午後4時からグランドヒル市ヶ谷において早雪忌が開催され出席する。

 平成17年12月10日に56歳で自裁された重遠社代表三浦重周氏の13回忌。

三浦氏は日本学生同盟委員長を経て長年に渡り民族派青年運動の最前線で旗を振り後輩の指導に当たられてきた。

三島由紀夫研究会事務局長として憂国忌の開催を支えるなど、思想的指導者としても活躍されてきた。

 憂国忌後の墓前報告祭を終えて後、郷里の新潟へ旅立ち吹雪の新潟東港岸壁で自刃されたのだ。

 使用されたのは出刃包丁だと聞いていたが、実際にはそれよりも小さな刺身用小刀であったとか。

名刀関の孫六で一思いにという訳にではなかった。介錯人もいない中で相当に苦痛を伴ったものと思われる。

相当の覚悟を持って自裁されたのであろう。

 拳銃や日本刀を容易に調達できるような立場になかったことが窺える。

世間的に自らの死を賛美させるような意図を持たない、恰好いい死に様ではなかった。

如何にも三浦氏らしい武骨な死に様であったのだ。

飾らない見栄を張らない。自らの思想・信念を貫く。まさに求道者そのものであった。

 

 楯の会事件以降、新右翼と称される民族派学生青年運動の中においては日学同系と一水会系という二つの潮流があり、お互いが反目している時期があった。

 その中で後者に位置していた小生としては三浦氏とはそれほど深いご縁を頂いていた訳ではなかった。

 にも拘わらず、当日は故人と生前に縁のあった一人としてご招待頂き、三浦氏の生前の功績をしのび会食などを共にさせて頂いた。主催者の方々に厚く御礼を申し上げます。

 

憂国忌.jpg

西の空に低く傾く日差しが外濠を照らす。(3時半頃の市ヶ谷橋上から)


小池百合子氏の人間性には疑問

 昨年の都知事選に際し石原慎太郎氏が「大年増の厚化粧」と揶揄した小池百合子都知事であるが、一年が経過してその厚化粧もポロポロと剥がれ落ちてきたかのうに、勢いが失速しだした。

党運営・新代表決定の過程に不満を持つ身内の都議二名が都民ファーストの会からの離党を表明した。

 その新代表である荒木千陽氏の父親を長妻昭氏が地盤とする東京第7区に刺客候補として送り込むといった暴挙に出た。

周囲が信用できないで全てを身内でガッチリと固めてブラックボックスで運営しようということなのか。

 

 そもそも長妻氏が希望の党に対して反旗を翻した訳ではない。

2005年の郵政選挙であれば郵政民営化という自民党・小泉政権の決定に反対票を投じたという事で、造反者の選挙区に刺客を送り込むと言う大義名分も存在する。

しかし、長妻氏は前原代表の民進党からは一切公認候補を出ないという決定に従い、希望の党から立候補するつもりでいたが排除リストに入れられてしまった。言わば被害者的立場であろうから刺客を送りこんで駆除するというのも理解しがたい。

 

 所謂保守やネットウヨクからすれば民進党からリベラル派と称される左翼勢力が駆逐された事で万々歳という事であろうが、道理に背いた形で叩き出すような小池氏の手法は評価できるものではない。人の道を踏み外せばしっぺ返しを食らうことになる。

 枝野氏は一人で会見に臨み立憲民主党の旗揚げを表明したが、心意気は良し。

勿論、思想信条は異なる訳で応援はしないが評価したい。

 所謂保守・ネットウヨクはステレオタイプに「枝野は革マル派なんです」と盛んに吹聴しているが、その実態は何処にあるのか。

枝野を支援するJR労組の中に革マル派の息のかかった者・勢力が存在するということではないのか。枝野自身が革マル派の看板を掲げて活動に従事していた訳ではあるまい。

東日本大震災発生以降、官房長官として毎日のように記者会見に臨んでいたが、必ず壇上の国旗に一礼してから登壇していたではないか。我々の立場からすれば政治的には敵対勢力ではあろうが、人間的には頑張ってほしい。

 

 小生とて政治的な思想信条や政策としては小池の方が近いが、人間的な器としては信用はならない。

この世界ではそういった人物が余りにも多すぎる。石原慎太郎・橋下徹をはじめ保守の論壇に立つ著名人物でも品性下劣な人間が多すぎる。我々在野の活動の場でもそういう人々と接してきた。

小池氏が9月29日に民進党候補全員を受け入れる気はサラサラございませんと言ったが、なぜ故に「サラサラ」という文言を用いたのかを考えれば人間の器が見えてくる。

「希望の党からの立候補はご遠慮頂く」でも意味は通じるところ、「排除する」との文言を用いたことでも分かる。

 

 小池氏は25年前・平成4年の参院選挙において初めて政界に出た訳であるが、選挙戦初日に渋谷駅前の街宣活動で野村秋介氏卒いる我々「風の会」とバッティングした。

 日本青年社の大型バスを用いた街宣車が止まり、移動用にもう一台の街宣車がハイエースを用いた日本新党の宣伝カーの脇を横切った際に40歳だったアナウンサー上がりの小池氏は演説の途中で「あ〜ら、大きな車がもう一台あるんですねぇ」と感嘆したかの様に話していた。

 ただそれだけのことなのだが、その言い方がどうにも嫌味を含んだニアンスで聞こえたのは小生の単なる僻みだろうか。

これが今回の「サラサラございません」に似た響きをもっているのだ。

街宣車乗り回すだけのヤクザ右翼が、と安保法制に反対してきた左翼が、と全く相反する相手ではあるがエスタブリッシュメントの側から見た驕りが感じられるのだ。

 

 政治的立ち位置・政策は支持する部分もあるのだが、社会の底辺に暮し歯を食いしばって子育てに邁進する庶民の立場に思いを至らせるタイプの人間ではないように思う。

 


沖縄戦と青柳時香陸軍少将

 6月23日。沖縄戦において日本軍の組織的戦闘が終結して72年となる。
母方の祖父、青柳時香が戦死したのはその16日後となる7月9日。
場所は沖縄本島が中央部で細く括れた部分にある石川岳の中腹と聞いている。
 仙台幼年学校を卒業し陸士28期として任官した青柳の軍歴は波乱に満ちていた。
林家に嫁いだ姉の二男である林八郎少尉は二・二六事件において栗原安秀大尉と共に首相官邸を攻撃するにあたり
兵を卒いて裏門からの突入を指揮したことで、銃殺刑となった。
その際、青柳は進退伺を出したが、この件では一応不問とされた。
 支那事変においては支那戦線に派遣され部隊を指揮していたが、隣に駐屯する部隊が八路軍に攻め込まれて大砲を取られる失態をがあった。
これに対し陸軍上層部から「なんで青柳の部隊は助けに行ってやらなかった」、と非難され
攻め込まれた部隊長と共に連帯責任というかたちで、冷や飯喰いの扱いを受けた。
 広大な支那戦線において隣の部隊とは言え、攻められたからと言って瞬時に駆けつけられるものでもなく、
同期の部隊長だからと言って責任を取れとは無茶な話ではないか。
 また、パーローと言われる八路軍の強靭さは相対した者でなければ分からない精鋭さをもった軍隊であった。
満足な装備も無いままに広大な支那戦線に放り出されるように駐屯させられた我が軍が簡単に太刀打ちできる状態にはなかった。
 その後、大東亜戦争末期において、戦況最悪の沖縄に派遣され第十九航空地区指令として飛行場の建設に携わる事となる。
米軍の本島上陸を喰いとめる為、3月の上陸直前に東シナ海に向かう読谷村地区に赴任するが、
戦況は混乱し、まともな軍隊としての指揮系統も取れない状況であった。
支那戦線で鍛えたたたき上げの連隊長であるから、きちんとした部隊があれば指揮を執って兵站を構築できようが、
連隊はバラバラでそのうち牛島参謀長とも連絡が取れなくなるありさま。
 同期の人間はすでに中将あたりに昇官しているなか、特設第一連隊長・陸軍中佐として上陸した米軍との間で日々死闘を展開していた。
 陸軍上層部では、「青柳の連隊がもう少し頑張って敵の上陸を遅らせてくれると思っていいたが、意外にも簡単に上陸を許してしまった」、と
青柳に責任を転嫁するが如き見解を示していた。
 馬鹿を抜かすな、この戯け者が。現地の戦況も分からずに内地で呑気なことを抜かす馬鹿共が指揮を執っていたから日本は負けたのではないか。
満足な武器も装備も弾薬もない中で、東シナ海の沖合に山脈のようにして押し寄せる真っ黒なアメリカの大軍を如何にして喰いとめることができようか。
 特設第一連隊については沖縄戦史において一部記述されているが、
その中でも「特設第1連隊の行動には詳細な資料が無く、第1大隊は全滅したために資料がない。」
とあるように記録を留める余裕もないほどの鮮烈を極めた最期であった。
 6月23日に組織的な戦闘を終結させると牛島満司令官や長勇参謀長は部下を残してさっさと自決してしまう。
 青柳は家族のいるものは安全な北部に移動させ、数名の若い部下と共に石川岳周辺のジャングルに籠って
本島を制圧した米軍相手に遊撃戦を展開する。
主に夜襲をかけて敵の兵站を攪乱することとなる。
 そんな中、米軍からお菓子をもらった現地人が密告をする、「あそこに大物がかくれている」
7月9日、部下が食糧を調達に行き小屋に一人でいるところを米軍の奇襲部隊に発見され火炎放射器の猛攻に遭う。
 沖縄に限ったことではない。インパール作戦にも代表されるように戦場を知らない馬鹿な上層部が机上の空論で戦争を展開したために
若い尊い命が虫けらのように切り捨てられた。
 本来なら先頭を切って戦後日本の復興の為に尽力したであろう、有能なる人材こそが率先して命を落とした。
そして、無残な敗戦へ導いた無能な指導者がのうのうと生き延びて、この腐敗堕落した戦後ニッポンを作ったのだ。
 青柳が沖縄で激闘を繰り広げる最中、同期も多くいた陸軍上層部では「青柳はまだ中佐だったのか。はやく大佐に引き上げてやらなければいかんな」、ということで、
沖縄戦終結の間際に大佐への昇官を果たした。
従って戦死により一階級特進し陸軍少将の扱いを受けた。祖母は戦後しばらくして相応の恩給を受取ることができた。
その中から、孫である私たちにも小遣いを与えることができるようになった。
祖母は生きている間、決して日本軍を悪くいうことはなかった。

有山氏と再会

6月14日(水曜日)、夜中にあずさの女将から電話。

「有山さんが来ているけど、槇さんに会いたがっているよ」、とのこと。

有山氏とは一水会の友好団体として「平和の会」を立ち上げ多摩地域で活動していた有山安男氏のこと。

突然、名前をあげられて実感が湧かなかったが、一緒に活動していた平成3〜5年当時の記憶が蘇ってきた。

 

店に行くと昔と変わらぬふくよかなで笑みを讃えた有山氏と再会。

最後に顔を会わせたのが阿部勉さんの葬儀の時だから十数年ぶりであろうか。

今は台湾に居住し、一時帰国中とのこと。

その前はニュージーランドに住んで、飛行機操縦士のライセンスを取得していたそうだ。

英語に堪能でなければライセンスを取得できない厳しい環境のニュージーランドで商業飛行の会社を経営。

その後は、フィリッピンでも日本人向けのライセンス取得事業を行っていたとか。

「天皇尊重」なんて大きく看板を掲げた街宣車を乗り回していた当時からは想像もできない出世ぶりだ。

 

 フェイスブックとやらを駆使して昔、一水会で活動していた当時のメンバーとも交流を持っているそうで、

皆さん活動を離れ、それぞれの道で堅実に歩んでいるみたいです。

29.6.14有山.jpg

 


通夜式の後で一献お世話になりました

 民族革新会議の議長であり博友会を主宰する犬塚博英氏とのご縁で酒席などをご一緒する機会の多かった佐藤裕史氏がお亡くなりになった。以前より癌との闘い臨んでいたが65歳と言う若さにして幽冥境を異にされる事となった。

拓大の柔道部OBという事で口数は少ないが実直で硬骨漢という印象の方であった。

七日の通夜式場は拙宅から歩いても10分程度。

 

 帰りがけに犬塚議長から声を掛けて頂いたので、民革の方々と共に沼袋駅近くのモツヤキ屋にて一献お世話になる。

焼酎を水割りと炭酸割りで頂く。

牧田氏も合流したが、不安定な丸椅子では尻が疲れるというので、電車に乗って高田馬場へ移動。

犬塚議長がお気に入りの磯丸水産にて更に一献のお世話になる。

 磯小屋風の作りで卓上のガスコンロで魚介類を焼いて食べる店。アッチコッチにチューン店を展開しているようだ。

新宿なんかでも朝まで夜通し若い女の子が入っている。ここ高田馬場でも若い女があふれ、我々のようなオッサン連中は

極めて少数派という不思議な空間。

店員の若い女の子は花柄の甚平みたいなうユニフォームを着て動き回っている。

そういえば佐藤さんと最期にお会いしたのも新宿3丁目の磯丸水産だった。7月30日の靖国神社懇談会の後だったっけ。

 

 日本酒を注文。メニューの中から松竹梅「豪快」をチョイス。ここの日本酒は全て辛口だとか。

小生は高い酒を飲まない。よく女子供が好むようなフルーティーなワインのようなテイストの日本酒、大吟醸とかが巷ではもてはやされている。が、こんなのは邪道だ。

 旨いと感じる口当たりの良い酒はついつい飲み過ぎてしまう。節度を失ってしまうからいけない。

酒を飲むと言うのは一種の修行であるから、旨い酒を飲んではいけない。

安い酒を注文してその苦さを味わいつつ、堪える様にして喉の奥に流し込む。

小生は飲食店で日本酒を注文する時には銘柄を指定しない、その店のメニューに「日本酒」とだけ明記されている酒、

つまりは一番安い酒を注文する。

ただ単に懐具合の問題だけではない。その店のポリシーが分かる。

アテ(肴)もそれに呼応したレベルのものが出てくるはずだ。一人で日本酒を流し込むなら「舟歌」の歌詞にあるような店で飲みたいものだ。

 

 磯丸水産で燗酒を頼むと小さな薬缶に入って運ばれてくる、犬塚議長も小生もこれがお気に入りとなっている。

小さな杯にチビチビ注いで喉に流し込むのが庶民的で良い。

銘柄の「豪快」とは裏腹なのも良い。

佐藤裕史さんの御霊に対し献杯。ご冥福をお祈り申し上げます。 合掌

 

 


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