6月23日は沖縄戦の終結から75年。
コロナウィルスの影響で規模は縮小されたが沖縄県内では追悼の行事が行われた。
沖縄出身者だけでも12万人が犠牲となった沖縄戦。
よくもまあ、あんな無謀な戦争を展開してくれたもんだ。
日本人が始めた戦争で日本人が犠牲になるいならまだ分かるが
日本人とはいえ、本来は大和民族とは異なる琉球民族である沖縄の人々が多数が命を失うこととなった。
本土決戦が敢行されていたなら大和民族たる日本人は沖縄人と同等にあそこまで勇猛果敢に祖国の為に命を投げうって闘っていただろうか。
所謂保守系、また自称愛国陣営の人々は左翼・反日勢力の自虐的な侵略戦争論に反発したいという事もあろうが、聖戦とかアジア解放の戦いなどとやたら大東亜戦争を美化したがるが、実際はそんな綺麗なものではないだろう。
対戦相手であるアメリカの力量を知らずに無謀な戦いを挑み、無残な敗戦へと突き進んだ。
当事者たる将兵以外の民間人に大きな犠牲者を出したことは反省せねばならない。
戦略・戦術の誤りを見つめ検証し、誰にどのような責任があったのか明確にせねば、また同じ誤りを繰り返すこととなる。
尤もいまは平和憲法の下で二度と戦争をしない国になりながったのだから、検証など無用であろうか。
真摯な検証と責任の明確化を放棄するというのは左派勢力が崇めたてる平和憲法の美化と表裏一体なのである。
平和に対する罪ではない。敗戦の責任を負うべき人物がいたはずである。
昭和20年4月1日から米軍の沖縄上陸が始まり、さしたる日本軍の抵抗もないまま5万人が上陸した。
日本軍も抵抗したが圧倒的な戦力の差を持って米軍は瞬く間に沖縄主要部を占領した。
日本軍司令部は首里を放棄して南部の摩文仁に司令部を移したが、沖縄住民も一緒に摩文仁に移動させた。
住民だけでも南東部の知念半島に避難させていれば、これほど犠牲者は出なかったはずだ。
ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊と言った多くの若人が将兵と共に命を落としていったことは慙愧に耐えない。
牛島満第三十二軍司令官、長勇参謀長と共に八原博通高級参謀が作戦の立案を行っていた。
八原は「南西諸島警備要領」を作成したが、その中では冒頭に「およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者はあげて戦闘準備及び戦闘に参加する」、とある。 戦闘能力作業力がある者とは当時の中学生も含むものでありここから、ひめゆり部隊・鉄血勤皇隊の悲劇を生むこととなる。
6月10日には米軍沖縄最高責任者であるバックナー中将から牛島司令官あてに降伏勧告書が送られてくるが、牛島は一笑に付して握りつぶしてしまう。
組織的な沖縄戦終結、そして牛島自決のわずか13日前である。
小生の祖父である青柳時香は敗戦色濃厚な昭和19年、第十九航空地区指令として沖縄に赴任し、飛行場建設に当たった。
しかし、米軍による沖縄上陸を見据え大本営は捷号(しょうごう)作戦を展開。
米軍が本土爆撃の拠点として使用することになるであろう飛行場の破壊に転じる。
青柳を連隊長に急ごしらえの特科第一連隊を組織して飛行場の破壊という任務を命じてきた。
800隻を超える巨大な黒い山脈のごとき米軍による艦砲射撃の前になすすべもなく上陸を許し、
住民をも巻き込んだ市街戦となる。
青柳は「こんなのは戦争じゃない。このままじゃ皆犬死だ」と言って家族のある兵士には北部へ撤退するように命じて自らは6月23日の沖縄戦終了後も数名の部下と共に石川岳の山中に籠り遊撃戦を展開していたという。
牛島司令官・長参謀長は6月23日の戦闘終結の前夜に自決してしまうが、八原大佐は戦況報告の任を帯び生き延びる。
戦後、回顧録を書くが「青柳連隊長は中国戦線での活躍があり期待していた。
もう少し頑張って敵の上陸を引き延ばしてくれると期待していたが意外にもあっさりと上陸を許してしまった」という事を記していた。
祖母や母と姉妹弟は悔しい思いをしたという。
後に知ることであるが八原は終戦後、軍服を脱いで英語教師と偽り民間人になりすまし収容を免れた。
沖縄県庁課長による面接で身元がばれるが、占領軍からは高級将校として農家の一軒家を与えられ米軍将校を連絡兵として当てがわれその上、日本兵の当番兵が割り当てられ優雅な日常を送り、21年1月に内地へ帰る。。
推測するに占領軍が欲するところの有益な情報を提供したからではなかろうか。
青柳の家(母の実家)は一家の担い手を失い貧しい暮らしを続けるが講和も成立した後には、陸軍少将に相応しい年金を受け取ることができ、青柳の葬儀を上げることができた。
当時の部下達も葬儀に参列し「司令官のお陰で自分たちは生きて帰ることができました」と感謝したという。
陸士29期の同期でありマッカーサーを厚木基地に出迎えた際に日本側の責任者を務めた有末精三中将も参列した。
3年前、6月25日のエントリー↓↓↓ (参考)
http://makiyasutomo.jugem.jp/?eid=1768
戦後75年節目の沖縄全戦没者追悼式
2020/06/23 12:00
報告・稲嶺羊輔アナウンサー
例年だと5000人規模の式典も今年は新型コロナウイルスの影響で、参列者を200人に限定するなど規模を縮小して行われる。
この後、玉城知事が戦争の悲劇を二度と繰り返さないと誓う平和宣言を行うほか、首里高校3年生の高良朱香音さんが平和の詩を朗読する。
平和の礎で取材をしていると84歳の男性は、戦争で亡くなった両親や兄弟の姿を探し歩く夢を今でも見ることがあると話し、体験者の苦しみは今も続いている。
そして「若い人たちは戦争の怖さを知らないから関心が持てないのかな」とつぶやいたことに胸が締め付けられるような思いがした。
戦後75年が経って当時を語れる人も徐々に少なくなった。
また今年は新型コロナウイルスによって平和学習の機会も奪われた。
それでも今日の慰霊の日にあたり、先の大戦で県民の4人に1人が命を落としたという悲劇を風化させずに次の世代に継承させていくのか、今を生きる私たち一人一人に戦争体験者からバトンが託されいる。