北朝鮮によって拉致された横田めぐみさんの父である横田滋さんが6月5日、老衰のため87歳で死去した。
娘との再会を夢見てそれを糧として活動に邁進してこられた身としてはさぞかし無念であったろう。
平成9年に西村慎吾衆院議員が衆院予算委員会でめぐみさん拉致の事実を公表したことで北朝鮮による拉致問題を公然と世間に訴えるきっかけが生まれた。
身内が拉致被害者であることを公表するというのは、拉致の事実を隠蔽したい北朝鮮からすれば
被害者を殺害する動機を与えることになる。
故に横田夫妻が前面にでて救出活動を行うことには懸念を示す見方もあった。
しかし、一方においては拉致被害者の存在をアピールすることで、被害者を外交カードとして
使いたい朝鮮としては、殺してしまってはカードを失うことになるから生かしておくだろうとの見方もできる。横田夫妻は後者に賭けた。
その年に蓮池さんや奥土さん増本さん等の拉致被害者家族と共に北朝鮮に拉致された被害者家族会を結成し、横田滋さんが会長に就いた。
家族会の中でも横田夫妻は先頭に立って勢力的に街頭での署名活動を展開してきた。
またそれ以上に政府や関係機関に訴え、マスメディアにも取り上げてもらえるように要請してきた。
その頃同時に現代コリア研究所の佐藤勝巳氏や西岡力氏を中心として北朝鮮に拉致された被害者を救う会が結成され、私も参加し街頭での署名活動を展開してきた。
横田滋さんの逝去にあたり、テレビの報道番組等では横田滋さんが街頭で署名活動を行う映像を繰り返し流しているが、それらのすべては平成14年「9.17小泉訪朝」以降のものである。
家族会・救う会結成から北朝鮮が正式に拉致の事実を認めるまでの5年間は苦難の連続であった。
我々がマスメディアに対し、拉致問題を取り上げて欲しいと要望してもメディアは一切応じなかった。
むしろ積極的に隠蔽に加担してきた。特にNHKと朝日新聞。
今でこそ「9.17」を境にして「北朝鮮」という用語は一般に使われているが、それまでのマスメディアは必ず「朝鮮民主主義人民共和国」という北朝鮮におもねる表現に徹してきた。
そのような社会情勢であったから我々の家族会と共に歩んだ救出活動も平坦なものではなかった。
平成10年3月、次の日曜日には横田さんの地元であるJR川崎駅前で署名活動を実施しよういうことになった。
川崎は在日朝鮮人が多く居住する地域であるからどんな妨害があるかわからない。
横田夫妻に危害が加えられることは許さない。我々が楯になって横田夫妻を守ろう、と決死の覚悟で署名活動を行った。
当時の活動は家族会と救う会を合わせても十数人程度。
私も横田夫妻と共に署名簿を持って道行く人に対し一人ひとり署名を呼び掛けた。
無言で通り過ぎる人が大半であったが、中には「拉致なんてねえよ」とか、「連れていかれ方が悪いんだよ」と暴言は吐き捨てていく人もいる。
「いや、そうじゃないんですよ。中学生が部活の帰りに、、、」と説明を試みることもあったが
横田早紀江さんは「槇さんもういいですよ」と言って食い下がる私を諫めてくれていた。
その日は3月とは言え、強い北風が吹きすさぶ極寒の一日で、不覚にも私は翌日から熱を出して寝込んだ程であったが夕方まで横田夫妻は皆と一緒に署名活動を牽引していた。
救いだったのは駅前にある日航ホテルの支配人が「皆さんで飲んでくださいと」暖かな缶コーヒーを差し入れてくらたことだろうか。
当時の活動目標はとりあえず100万人の署名を集めて政府に提出する。
日本国として拉致問題に向き合い解決をはかる意思を示してほしい、という事。
今であれば当たり前のことなのだが、それすらも政治プログラムには乗っていなかったのだ。
ある日、横田夫妻は自身が居住するマンションの管理組合に対し署名簿を持っていき協力をお願いしたが管理組合は「政治的な活動には協力できない」と突っぱねた。
横田滋さん逝去に際し、テレビでは街頭で多くの支援者に囲まれてマイクを持って訴える姿が映し出され、多くの聴取が立ち止まり耳を傾ける映像ばかりが流される。
9・17直後の署名活動ではあまりに多くの人に囲まれ横田夫妻は近くの交番に一時避難したと聞く。
マンション管理組合も積極的に署名やポスター掲示に協力したと聞く。
マスメディは部数獲得や視聴率稼ぎの材料として「9・17」以降の横田夫妻を利用しているのではないか。
それはお茶の間的話題・居酒屋談義として弄ぶ庶民も同等であるし、何といっても「9・17」以降、一斉に手のひらを返した政治家、特に保守を自認する自民党系議員に顕著に現れているのだ。
私は忘れませんよ。彼らがどのような態度をとってきたか。