9月9日(土曜日)午後6時からのTBSテレビ、報道特集で「医療的ケア児と教育」を放送。
途中から観たのだが、専門的な医療ケアを必要とする重度の脳性麻痺を患った児童の小学校生活をリポート。
人工呼吸器を付けているため、専門の看護婦二名が自宅の送り迎えから全て付き添う。
本人は理解できてないであろう授業においては看護婦が専用の筆記具を手に握らせて、ノートに文字を書かせている。
音楽では棒を握らせて看護婦がタンバリンを打ち鳴らす。
屋外の鬼ごっこでは看護婦が車椅子を押しながら駆け回って他の児童を追いかける。
障害児の意思など何処に働いているのか。
普通なら障害児の為の特別支学校に通わせるところであろうが、保護者の希望により、通常学校に入学し6年間をすごす。
他の児童に対するインタビューでは「コウチャン(障害児童)は優しい」「一緒にいると優しい気持ちになれる」、と肯定的な言葉しか発することはない。
親が通常学校への入学を希望すれば行政は拒否できない。そして設備改修も含め莫大な費用をかけて対応しなければならないのが現状。
なんの為に多額の予算を掛けて特別支援学校を建設しているのか。
国家資格を持ったプロの看護婦であるから年収は数百万に及ぶであろう。その二人が一人の障害児に付きっきりとなる。
もしも、救急救命の医療現場において従事していればどれ程の危うい命を救う手助けができていようか。
何と言っても、授業内容も理解できないまま健常児と同じ教室に送り込まれ、意思を持っているかどうかも分からぬままに、
看護婦によって手を動かさせられながら筆記や演奏を強いられることが、その子供にとっての尊厳ある生き方なのか。
一昔前は障害児が通常学校に通う際は親が付き添っていた。
しかし、親が教育現場に立ち入ることは好ましくない、ということで親は在宅のままで見送り迎えるだけになった。
少子高齢化による医療費の増大とそれに歩調を合わせた税収不足。
加えて医療現場における看護婦の不足が問題となっている。
障害児を出産・子育てを実践している自民党の野田聖子議員もインタビューに応じ、教育現場における医療の充実を訴えていたが、これで良いのか。
障害を負って産まれてきた子供に対するケアに反対する人はいないだろうが、過度の支援・要求に対してもこれを拒絶することができにくい世の中になっているのではないか。
いくら財政を投入してケアしても障害児が負っている障害が回復するものではない。
だからこそ、障害を負わないで済む環境でこの世に生まれることができるように支援・手助けすることが必用ではないか。
これは優秀な頭脳と肉体を持つ子供を出産させるためにはどうするかといった「優生学」に繋がる。
優生学はナチス・ドイツを引き合いに出してネガティブなイメージが植え付けられているが決して悪い事ではない。
野田聖子のように日本で禁止されている他人の卵子を使った体外受精をアメリカで行い、50歳での出産となれば障害児が生まれるのは自明の理。
単に「私は生みたい」(野田の著書名)という自らの欲望を全面にだしての出産。
重度の障害を持ってこの世に送り出された子供は果たして幸せなのか。子供自らが選択してこの世に出ることはできない。
生まれてくる子供に対し未必の故意により重度の障害を負わせいる訳であるから、野田聖子に対しては刑法上の傷害罪が適用されてしかるべきである。野田だけではない。同様の親は多数いるはずだ。
「私は生みたい」。それは乳呑児を抱きかかえて煙の充満する居酒屋にやってくるバカ親と同じである。
「お酒を飲みたい」、が子供を「生みたい」に変化しただけなのである。