平成30年1月27日(土曜日)19:30からのNHKで放送した「赤報隊」の前編を観た。
「意に沿わない言論を力でねじ伏せようとする卑劣な犯行」
阪神支局を攻撃した赤報隊の行動を朝日の特命取材班樋田記者を演じる俳優にこのように批判させていたが
これこそが奢れる朝日の神髄であり、そのように思っていることが事件の解決を阻んだ原因であろう。
赤報隊による一連の朝日攻撃は言論機関を標榜し圧倒的な力で弱者を抑圧する朝日と、言論を有するがそれを披歴する機会さえも奪われた被抑圧者との戦争であったのだ。
自らの正義を疑う事もなく巨大言論機関による部数を背景にして批判を許さない独善的体質が事件を惹起させたのである。
法治国家の名の下において警察権力や司法をも味方につけて、持たざる者・弱者を徹底して蔑み踏みつけその存在さえも否定する傲慢な所業に対し一矢を報いたささやかなる遊撃戦が赤報隊による決行であったのだ。
ドキュメンタリー仕立ての放送では、犠牲となった小尻記者の遺族などにも焦点を充てて、如何に卑劣な犯行であったかを強調していたがこれは問題のすり替えである。
何故なら小尻記者は巨大朝日が仕掛けた戦争の犠牲者に過ぎないのである。
朝日軍の戦闘要員として朝日の命令において前線に立たざるを得なかったに過ぎない。
記者個人としては29年の人生の軌跡があり、今後の生涯が失われたという点でお悔やみを申し上げる。
自分の家族であるならば断じて許せない卑劣な犯行とみるだろうが、この事件の本質においてはそのようなミクロな捉え方はそぐわないのである。
米国製の戦争映画を観ていて敵国となるドイツ軍との戦闘場面に遭遇すれば主人公の米国兵に感情移入し、敵が後ろに迫っている際には「危ない、はやく撃って」などと思う。敵が撃破されればホッとすることだろう。
しかし、殺されたドイツ兵においてもそれまでの人生があり残された最愛の家族があり、その先の生涯が備わっていたはずであるが、そこまで考えることはない。
これは現在、世界各地で繰り広げられている戦争・戦闘でも同様である。
2003年のイラク戦争でアメリカ軍によって殺害されたイラク兵においては如何なる落ち度があったというのか。
小尻記者と同様に上からの命令を忠実に実行していただけである。
イラク兵はフセイン大統領の統治するイラクに産まれ、小尻記者は日本に生まれ朝日を就職先として選択したに過ぎない。
戦後、朝日が行ってきた所業とは人一人を抹殺する以上の極悪非道なる世論誘導に徹してきた。
日本と言う一国の名誉を根底から崩壊せしめてきたことは、赤報隊による決行声明文にある通りだ。
一連の事件は権力者たる朝日と被抑圧者側との全面戦争であった。
持たざる者故の戦いとしては遊撃戦が効果的であった。
組織の末端を狙う。足元から切り崩して本丸に到達する。
場合によっては対象が新聞配達少年であった可能性もある。
その際には事前の通告を持って職責離脱を促すだけの猶予を与える。
「言論に対しては言論で」、といった言葉が朝日・樋田記者の発言としててくる。
その言論戦を否定しているのは朝日の側ではないのか。
偏向・虚偽報道に対しての抗議は勿論のこと、放送内容についての疑問・事実誤認を糾そうとも
朝日の回答は「ご意見として受けたまわります」、と木で鼻を括った態度に終始する。
そして担当者が誰であるか名乗ることをしない。
面会による質疑応答も拒絶する。
素性を隠した赤報隊が卑劣なテロであると言う以前に、朝日自らが如何に卑劣な集団であるかに思いを至らせるべきである。
決行の後に縄目の「けじめを受けるのが由緒正しい右翼のテロ、と思い込んでいるようだが、
ここまで警察や司法がマスメディアに迎合し不当な取り扱い・判決を下すと分かっていながら権力に対し服従する必要はない。
決行の真意を公の場で国民に開陳できると信じ投降に応じた二・二六事件の蹶起将校等が非公開の暗黒裁判によって処刑されたのを想起させる程に
現在の体制そのものが朝日以上に偏向しているのであるから、数少ない人員をむざむざ権力側に引き渡す訳にはいかないのである。
今般の放送内容においても視聴者に錯覚・誤解を与える為の工夫が散りばめられていた。
前篇を見た中では「赤報隊を支持するぞ」、と気勢をあげてデモ行進する実際の映像が存在する。
責任を伴う政治勢力とは無縁である所謂ネットウヨクの所業を取り上げることが、事件の本質とかけ離れていることは承知しているはず。
「右翼の台頭」と言った実在しない社会不安を煽るための朝日・NHKにとって都合の良い映像の切り取りであることは明白である。
もしろん、小生が一連の事件に関係している訳でない。もしも自分が実行者なら、といった仮定のもとに構成していかなくては本質が見えてこない。
因みに小生が所有していた同型のワープロ・書院WD20は随分前に処分してある。