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今年の二・二六法要は11時からです

 
 今年の「二・二六事件全殉難諸霊法要」は午前11時から開始されます。
 場所は例年通りの麻布・賢崇寺(東京都港区元麻布1−2−12)です。
 11時から法要、12時から松本健一先生の講演。その後、直会となっています。
 
 当日は永田壮一君の区議選出馬激励会があるのですが、時間が重なってしまうので、こちらの方には参加が適いません。
 志にある方は、どうぞ永田君の激励会に参加してください。
 永田君は、対馬奪還や長野聖火リレー粉砕など、数々の闘争で一緒に闘った同志であり、また靖國会を牽引するリーダーの一人として活躍しています。
 なんと言っても温厚な人柄は誰からも好感をもたれますが、その裏には熱く燃え盛る闘志を秘め、グレーシー柔術の実践者として一旦緩急ある時には頼りになる存在です。
 今回、4月24日に投票される千代田区議選への立候補を表明しています。
 2月26日(土曜日)午前10:30に如水会館(千代田区一ツ橋2−1)へ集合です。
 この際、何処の政党から立候補するとかは関知しません。
議会に乗り込んで行って、そこで本領を発揮すればよいのです。健闘を祈ります。
 
 
 それで、二・二六法要ですが、今年は昭和11年の決起から75年となります。(今年は「昭和」にお置き換えれば86年でから)
 この法要は決起した側、君側の奸として銃弾に倒れた側、また職務上警備にあたりながら決起部隊に応戦して倒れた人々も含めた全殉難諸霊のための法要です。
 とは言え、参列者遺族の殆どは決起部隊と二十二烈士の関係者が中心となっています。

 2年前の法要を前にして、代表世話人の安田善三郎氏から、「槇さんは遺族席に座らないでくれ」、と申し入れがありました。
その他にも受付に立つな、とも言われました。
 理由としては、「槇泰智が遺族席に座っていると、『何故、槇があそこにいるのか?』と、質問をされれて迷惑をした」、と言うのです。
 おかしな話です。「誰が質問をしたのか?」「遺族であると応えればよいではないか」、との問には「誰だかは言えない」「誤解を受ける」、と意味不明の受け答えをするのです。
 私が、推測するところでは当局からの恫喝か何かがあり、震え上がったというところでありましょう。
 
 安田善三郎氏は斉藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監への攻撃を指揮した一人、安田優少尉の13歳年下の実弟です。
 長年に渡り、このような法要を催行するに当たっては、当局よりの監視を受ける中で気を遣って継続してきたであろうご苦労は理解しています。
 しかし、そういった諸情勢は当初から分かっていたことですし、私が法要の進行をお手伝いすることで、何ら引け目を感じる事ではないでしょう。

 青年将校は権力者の保身や不条理を打ち破るために、我が身を捨てて決起したのですから、現在でも体制側との確執があったとしても当然でありましょう。
 私を排除するのであれば、「二・二六事件全殉難諸霊」とか言う文言を使用しないで、「安田善三郎と愉快な仲間たち」、とでも称する私的会合にすれば良いわけです
 別段、私が遺族席に座る必要もないのですが、こうまであからさまに排除しようとするのであれば、反発もしたくなります。
 その結果、一昨年より遺族席を廃止して一般参会者と同じ並列の座席配置としたのです。

は、一昨年12月の朝日新聞ウェブ版ですが、ここで安田善三郎氏は語っています。

「私心がなかったことは認める。けれども人を殺してしまった罪は決して許されるものではありません」
つまり、安田善三郎氏が見る二・二六事件とは、決起将校の描いた日本とは正反対の方向にある訳です。
 
 私の母の従兄弟は林八郎少尉であり、二十二烈士の中では最年少の二十一歳でした。
栗原安秀中尉と共に岡田啓介首相官邸を攻撃、第三小隊を率いて裏門からの突入を指揮しました。
その父は、上海事変で戦死し、軍神と言われた林大八陸軍少将でした。
しかし、モスクワ留学の経験がある長兄は共産党に走るという数奇な家系でした。
 
 そんな訳で、林八郎の叔父、つまり私の祖父・青柳時香少将(陸士28期)は出世が遅れていました。
大東亜戦争も結末が見える状況下で満州より転属。
米軍の上陸が始まる沖縄中部の東シナ海側で第19航空地区指令として、飛行場建設に従事して上陸する米軍を食い止める任務に当たったのです。しかし、任地に赴いてみると部隊も人員もバラバラで、統率を以って指揮できる状況ではなかったそうです。
 戦局は悪化する一方で、牛島中将とも連絡はとれなくなり、既に敗戦は濃厚となっていました。
「これは、もう負け戦だ」「犬死させても仕方ない」。
独自の判断で家族のある者達は北部へ転進させたのです。
そして6月23日、日本軍は組織的な戦闘を終結させ、事実上の沖縄戦は終了したのです。
 しかし、祖父は数人の部下と共に米軍の集まる南部へ転進。石川岳の麓に野営して遊撃戦を展開していました。
部下が食料を調達に行って小屋に一人で居るところを米軍が急襲。火炎放射器で小屋ごと焼き払われたそうです。
米兵から菓子をもらった地元住民が「あそこに大物がいる」、と密告したそうです。
 沖縄戦集結から17日を経過していました。
 
 我が家の家系というのはいつの時代にも、反体制としての結末を迎えるようです。
 

コメント
事件屋恐喝屋としての北一輝

北は、1931年(昭和6年)末から、三井財閥から年額2万円(現在に換算すると1億円前後)の資金提供を受けるようになり、この資金で、中国の人脈を維持し、在野の右翼暴力団員を食客として養い、青年将校に飲食遊興をさせて自らのシンパとしていた。また、自身も極貧から転じて、実際には豪奢な生活に耽った。さらに、たびたび企業幹部、政治家などに憂国談義を装って面会を強要し、そのたびに金を受け取っていた。

直情径行、純真無垢なる青年将校がいかに毒されていたのか判ります。

昭和軍閥の犠牲となった青年将校に哀悼の誠を捧げます。
  • まきまき
  • 2011/02/24 8:55 PM
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