4月18日に東池袋で発生した母子が死亡した交通事故。
葬儀が営まれた4月23日に被害者の夫・松永さんが記者会見に臨んだ。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6321570
この現場は小生もよく通る場所。加害者の飯塚幸三氏の走行路と同様に池袋駅方向から護国寺方向に向かい、この事故のあった交差点で右折車線に入り高速道路下の脇道に入っている。すると目の前に取引先の会社がある。現場の地理を熟知しているだけに人事ではない。自分が被害者になっているかもしれないし、それ以上に加害者になる危険性が高い。
まだブレーキとアクセルを踏み間違えることはないだろうが、前方不注意や後方確認不足での発進・車線変更などあり得ることだ。オートバイでも引っ掛ければ死亡事故に繋がる。
松永さんの悲痛な様子をみれば高齢者ドライバーに限らず全てのドライバーに対する注意喚起になろう。人を死なせてしまったらその親族はどれほどの悲しみに直面するのか。
日々の報道から学び取っていかねばならない。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」その答えは悲しむ人がいるからです。
自分の死が一人称の死であれば、「おまえ」「あなた」と呼び合える人の死は二人称の死であり、一般人がニュースで見る三人称の死とは重みが違うのです。
昭和56年に江東区森下で覚醒剤中毒の川俣軍司によって4人が殺害された。27歳の妻、3歳・1歳の幼子を出刃包丁で刺し殺された夫、当時の長野さんが今回の松永さんとダブってしまう。
長野さんはあまりのショックから自暴自棄となり酒に溺れた。当初は同情的に見ていた周囲の人々も酒から抜け出せず墜落的な生活をする長野さんを冷ややかな目で見るようになる。立ち直る事ができずその後の消息は分からない。
まだ法整備も不十分であり犯罪被害者への救済制度もなかった時代だ。
一方、平成11年山口県光市で発生した母子殺人事件。23歳の母親と11ヶ月の乳児を殺害した18歳少年には一・二審で無期懲役の判決が下された。
犯人は反省もなく7年もすれば出てこられる、とたかをくくった手紙を獄中から友人に出していた。
被害者の夫である本村洋さんは各地で講演をするなど積極的に活動し被害者の権利確立を訴えた。
その結果、高裁の差し戻し判決を経て最高裁で少年(当時)への死刑が確定した。
今回の松永さんも記者会見で高齢者ドライバーの免許返納を訴えていた。今後は自分のような悲しみに暮れる人を無くしたいとの思いからだ。これをきっかけに何らかの法整備がなされるか、社会の流れが変わるかもしれない。
本村さんの精力的な活動のおかげで容疑者を適切に処罰することができたとすれば良い事であろう。
しかし、被害者遺族において本村さんのような熱意や能力、または時間的余裕がなかったらどうなるのか。
遺族が何もできなかったからという事で、犯人に対する適切なる処罰が下されていなかったとしても我慢するしかないのか、という問題に行き着く。
理想的なのは遺族や近親者が動こうが動くまいが、法律に則り良識と見識を踏まえた適切な判決が下される事であり、そのような判決を下す社会常識を兼ね備えた裁判官が配置されねばならないのだ。